北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第4章 職人と技術

はじめに
北本市は荒川と旧中山道沿いの交通の要所にあった。そして、この地は、日本橋より一ニ里(四八キロメートル)という近郊に位置していたことから、江戸の周辺地域としての深い関わりを背景として開発が進められてきた。しかし、桶川や鴻巣などに比べて、宿場町としての大きな変容は見られなかった。近世、徳川家の入府によって、陸上の交通路の整備とその利用が頻繁(ひんぱん)になるが、市域は古くより、現在の荒川沿いに鎌倉街道が通じており、それが、高尾や石戸宿の河岸にあった舟運の要所とあいまって、明治・大正のころまでこの地の主要な交通ルートとなっていた。
北本市の諸職の種類を概括してみると、そのほとんどが、衣・食・住にかかわるものであり、工芸的技術や産業的職種に関するものよりも生活にかかわる職種であるのが特徴である。この地には、こうした職種のほかにソマ(杣)職や庭師などの職人もいたが、これは、この地で財力を築きあげたドウヤマ(田島家)の林野や庭仕事に関わりをもっていたものであった。このドウヤマが財力を蓄える要因となったのは、高尾の河岸を利用した舟運によるものであった。また、明治の中期に問屋をはじめたマンゾウさん(新井萬造)が成功を遂げる背景となったものは、江戸時代の末期からこの地に根付いていた(文政八年(一八二五)の資料あり)桐タンス(ハコヤ)の職人がいたことによる。高尾にはいっとき、四〇軒以上のハコヤがいたという。明治時代初期新井萬造さんはこの桐タンスに目をつけ、高尾の河岸から川舟でこのタンスを積み出した。そして、これが成功をおさめ、「萬造さんの出荷によって、東京のタンスの相場も決められた」といわれるほどの勢力を持つに至ったといわれている。市域で地場産業となり得た伝統的な職種は、この桐ダンスを作るハコヤの他に、石戸宿にはゾウリオモテ(下駄・草履などの)を作る手内職があった。しかし、そのいずれもが、基本的には農閑期の副業として続けられてきただけで、それ以上の進展がなかった。
このように、北本市の職人は、そのほとんどが日常生活に深くかかわりをもつものばかりであるが、そうした、職人としての技術を身につけるまでに、人々はどのような過程を歩んできたのか、また、その職人になろうとした契機や奉公先のこと、修業の様子や作業工程などにも焦点をあてて、職人とその技術についてまとめてみた。

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