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第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

11 イドヤ(井戸屋)

中丸の桑原英男さん(昭和六年生)は、昭和十八年、鴻巣の国民学校を出てすぐ、川口の川中馬之助さんのところへ小僧に入った。その当時、職人が三〇名ほどもいた。井戸掘りの修業は七年で一人前といわれていたが、四年間修業しただけで昭和二十二年にそこをやめた。その後、伊藤さんのところで働いた。伊藤さんは中丸から出た人で、木更津に奉公に出て、鳩ケ谷で仕事をしていた。桑原さんはここで上総掘りを覚えた。上総掘りを覚えているうちに、刃先の加工が大事であることを知り、それからカジヤをはじめた。
上総掘りの刃の部分をヤ(矢)といい、刃先にヤキを入れた直径二寸(六センチ)、長さ六メートルの鋼鉄の棒であるが、これが井戸掘りの命なので、仕事もうまくいった。そのうちに洋式の機械掘りが普及しはじめ、ボーリングやサクセイボリなどと呼ばれ、井戸屋もサクセイ(鑿井)屋と呼ばれるようになつた。こうしたことから昭和二十八年には、上総掘りはすたれてしまったが、ヤ(矢)作りのカジヤをしていたので、サクセイ掘りになっても仕事があった。そのうちに鴻巣にもどり、従兄と一緒に再び井戸掘りにも手を出すようになった。
日本にボーリングによる井戸掘りが入った最初は、尾久にある利根ボーリングである。ボーリングは大正年間にドイツから入ったという。日本では昭和四十年ごろから普及しはじめた。一般ではボーリングというが、これには二種類あり、一つはローピング(鉄の刃をさしこんで掘る方法)があり、ボーリングはダイヤモンド(工業ダイヤ)の先の刃を回転させながら掘りこんでいく方法である。したがって、ローピングは土質の軟かい所を掘るのに適しており、ボーリングは岩盤などのある所に適している。日本ではこれらを含めてサクセイと呼ぶが、多くはローピング法で間に合う。ローピングは一五貫(六〇キロ)の鋼鉄の棒が使われ、刃先は図のように三種ある。

図13 ローピングの刃先

イドヤの仕事にもどってからも仕事は順調で、一時は八人から一〇人の職人がいて、仕事も多く頼まれたが、地下水の保護規制が施行されるようになり、飲料水以外の井戸を掘ることが規制されるようになった。また、直径二五ミリメートル以下の水道管でなければならないという規制もあり、さらに水道の普及なども重なって、仕事が少なくなり、現在(昭和六十年)は以前の一割の仕事しかなくなった。この保護規制以外のものは農業用水、病院、浴場、消火栓、養魚などの七種類である。
荒川系の水脈は自噴(少し掘ると自然に湧き出る)する所が多く、菖蒲、笠原、吹上などの地区は自噴するが、鴻巣以南は自噴しない。羽生の下新郷などは一分間に一五〇〜二〇〇立方メートルも自噴した。吹上は自噴しても鉄分が多くて水質が悪く、一〇〇メートルも掘らなければ良い水は出ない。熊谷などの低い土地は水質が悪い(大腸菌などの雑菌が多い)ものである。
地層は、ドロ・ジャリ・砂・ガン(岩盤)の順になっており、ジャリと砂の地層をミズミチという。水量は、このミズミチのうち、砂の層とジャリの層の密度によってわかる。地表から大よそ三〇メートルがドロの層であり、それから二〇メートル下がジャリの層になっているので、五〇メートルも掘れば水は出る。昭和三十年ごろから陸田化がおこなわれるようになったが、農業用水は水質に関係ないので、一〇メートルから二〇メートルも掘れば充分に水が出たものである。これまで、一番深く掘ったのは行田市大田村のハスエ病院の井戸で、地下一三〇間(二一〇メートル)を掘ったのが最高である。熊谷は表土が浅く下はジャリなので、打込み井戸である。井戸は一本一五万〜二〇万円(昭和五十九年)が相場である。

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