北本市史 民俗編 民俗編一覧
第4章 職人と技術
第1節 日常生活と職人
12 タタミヤ(畳屋)
荒井の畳屋である福島弥作さん(明治四十年生)は、弥作さんの三代前の安政時代(安政五年のエビス様の掛軸が残っている)に畳屋を始めたという。弥作さんは明治の終わりに尋常六年まで勉強した。一七歳で東京に出て、本郷駒込富士前町の福島丑松さん(父の弟)のもとに弟子入りした。仕事は王子駅のそばにあった渋沢栄一邸や目加田男爵邸、岩崎邸、赤坂の山王様などの仕事をするうちに覚えた。二一歳の時、徴兵検査で高尾に帰ったが、第二乙種だったので戦争に行かなかった。図14 畳屋の道具
一 サンシゴ(三・四・五)。すみをきめて?の割合をとる
二 ワリボシ、ケシボシ。対角線をシャクズイでとる。
三 大阪どり。中心を十文字でとる。
部屋はどんなすぐれた大工の普請でも、部屋のすみは直角であるものはほとんどない。柱の太い部屋では畳は小さく、柱の細い部屋は畳が大きくなる(大工は柱の芯で部屋の広さを決める)。畳の寸法どりは、部屋の隅に一点をとり、その点を中心にしてヌキイトでシャク(尺)をとる。ヘリシキをシキイ(敷居)に立ててヌキイトを引いてシャクをとるが、これをシキイの表面に立てるので注意しないとシキイを欠いたりすることがある。畳の寸法をとるときは、一寸、二寸の微妙な差をとるので、コガネ(四寸物、六寸物の小さいモノサシ)でもって計る。
<寸法どりの心得>
「一カネ、二スミ、三カマチ」といい、寸法どりに使うシャクズイで正確に計り、畳のスミをしっかり決め、カマチとの合わせをきっちりきめる。これがかんじんなことであるという。
<畳オモテの作り方>
京間は本間より大きく、カマチは二寸五分(七・五センチ)、ヘリは五寸(一五センチ)広くしてある。畳は寸法どりをしたあと、一枚ずつ寸法に合わせて新床を作る。新床はどれも同じように作り、そのあと、カマチ作りをして、へリツケの時に寸法に合わせる。
図15 京間と本間
図16 畳道具
カマチは畳床のヘリの部分のことをいう。カマチ作りはムラトリといって断ワラや藁クズを入れて、芯を固めて作り、その両面に編みあげたムシロを縫いつけたものをいうが、機械作りになってからは、藁を広げるだけで、機械が床作りをしてくれる。カマチ作りで切り落された藁クズやゴミは畳床の芯を作る材料として再利用される。タタミオモテは戦前の一般家庭では、琉球オモテが丈夫で持ちがよい(畳のヘリがない)ので注文が多かった。戦後は備後オモテが多くなり、ヘリ付き畳の注文が多くなった。また、タタミオモテの裏はビニール製品を使うことが多くなったが、以前はシュロ(棕櫚)裏を使い、ハトロン紙でつないで止めた。シュロ地の前は麻地が使われたが、シュロ地の方が持ちがよいので、麻地にとってかわった。一時、マンゴー地の物が使われたこともあった。ヘリツケは上から下へ縫うことをオバリ(男針)といい、下から上へ縫い上げることをメバリ(女針)という。
図17 畳
写真13 畳屋オモテ付け
(荒井 福島弥作氏)
写真14 道具
写真15 高麗べり
備後 無地(黒、茶、 ウグイス)
高麗 大紋・中紋・小紋(神社、仏閣、床ノ間)
麻織りの生地はすべて無地で、黒、茶、ウグイスの三色がある。麻織り地は木綿地よりも値が高いので注文は少ない。
昔は畳床をとり換えることはなく、一〇〇年も使いつづけていたもので、家の寿命と一緒だった。畳職は大工の仕事ぐあいがよくわかるものであり、世の中の景気もよくわかる。世の中の景気がもどっても半年ぐらいは畳職に景気はもどってこない。