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第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

15 ハコヤ(箱屋)

田島八之助さん(大正六年生)は、現在、農閑職人としてハコヤを続けているが、八之助さんの代で三代目である。八之助さんは一四歳の時に鴻巣に奉公に出て、お礼奉公を一年やって六年目に帰ってきた。ハコヤの修行はクギ作りとノリ(糊)作りからはじまる。クギはウツギ(空木)の木で作ったものであり、ノリはご飯をつぶして水を加えて練り上げたものである。クギとノリつくりのあいの間に桐材の荒けずり(カンナで)の手伝いをさせられ、一年ほど経ってからノコを使えるようになった。そのようにして、一通りタンス作りができるようになったのは三年ほどしてからであった。タンスは一棹七日で作れば一人前と言われた。現在は手のこんだものが多く、年もとったので、月に二棹作るのが精一杯である。
昔は高尾ダンスといって有名であった。明治から大正にかけて、丸山から北袋にかけてほとんどの農家がタンスを作っていた。丸山には関東一といわれるタンスのモトジメがいた。そのころは材料が間に合わなくなると、大宮や浦和、行田の方まで買付けに行った。これにはブローカーが入った。地元の人の話によると桐ダンスの元祖は烏ノ木一帯であり、後に鉄道が通じるようになってからは、春日部に移った。春日部はもとハコヤ専門であり、牛島の藤の名所の近くに多くのハコヤがあって、昔は桐材の枝の太いものを買いつけに来たものであったという。鴻巣のタンス屋はタンス専門にやっているが、最初は高尾から出て行った人達である。高尾は高尾ダンスといって東京ダンスの元祖でもある。東京ダンスは三尺物(正確には三尺一寸)で京ダンスは四尺物とか六尺物が多い。高尾のタンスの最盛期には、できあがったタンスを運ぶ運び屋さんが何軒もあって、毎日運び出してにぎわっていたという。

図21 ハコヤの道具―カンナ―

図22 ハコヤの道具―ノコ―

タンスの材料となる桐の木は葉が落ちてから切るのがよい。四月になると木が水を吸う時期なので、皮がむけやすい。これを立てておいて梅雨の雨にあててアク(桐はアクの強い木である)を抜く。こうしておいて、秋の麦まきが終わる十一月ごろ板にする。昔は木挽きの職人に頼んでひいてもらった。桐の木は外に出して乾燥させておくと反りがでてくるので、タンスを作る時はカンナクズなどを燃やした炎で桐の板をあぶり狂いを直して使う。桐の木は火にあてても焦げあとがつかない性質をもっているので、少しぐらい乱暴に扱ってもよいという。タンスの表(正面と側面)は柾目(まさめ)をつかい、二分目(にぶめ)(三ミリぐらい)のものが良いとされる。会津桐は目が細かく良材であるが、扱いがむずかしい。それに比べて南部桐や新潟桐はおとなしいので扱いやすい。タンスなどを作るハコヤの仕事は十一月から五月までの農閑期の仕事であった。

図23 ハコヤの道具

図24 ハコヤの道具

図25 ハコヤの道具

タンスヤには製造屋と仕上げ屋があって、髙尾地区などの製造元では桐の木を板にひいて組み立てるところまでを請負った。組み立てたタンスはトノコをかけて拭き、ヤシャ(榛の木)の皮を煮出した汁を塗って乾燥させ、ロウ(イボタ蠟)を塗って錬きあげた。出荷先は鴻巣、桶川、上尾などで、東京の三越などにも出していた。

図26 ハコの組立て

岡田為一さん(明治三十二年生)がタンスのモトジメ(元締)をした時は、一カ月に一車(一二棹)を東京の京橋にあった武蔵屋へ出荷した。昔はタンスの製造にたずさわる人々は一くちにタンスヤと呼ばれたが、細かく見ると、モトジメと手間とりの職人がいた。モトジメは東京などの問屋と契約していて、問屋からの注文があると、材料となる桐の木を買い、タンス職人に仕立てを頼んだ。タンス職人がタンスを仕立てるとモトジメはそれを集荷して数を揃えて出荷した。タンス職人は自分達のことをタンスヤとはいわず、ハコヤというのが一般的であった。ハコヤというのは箱物を作る職人という意味である。モトジメの仕事はバクチと同じで、モト木(材料の桐)を仕入れる時はよほどの財産家でないかぎり、借金して買い入れたものである。これをハコヤ(職人)に木どりをさせて仕上げてもらった。高尾のタンスは、幅三尺一寸(九三センチ)のものが多かった。このタンスの桐板は、モトジメがコビキ(木挽き)を頼んで板にひいたものであったが、大正のころ、鴻巣に製材所ができてからは、製材所に頼むことが多くなった。原木は地元のものと福島の桐を使うことが多かった。地元の桐は目がつまっていないので、タンスの前面の桐板だけは福島のものをつかった。福島へはモトジメが買いつけに行き、一年寝かせてよく乾燥させた。買いつけは暮のころで、仕払いは翌年の暮であった。


写真16 タンス 桐材

写真17 板ケズリ

(高尾 田島八之助氏)

写真18 組み立て

為一さんの父の代は高尾一帯のモトジメであった新井萬造さんのもとで、タンス職人として仕事をしていた。萬造さんは一月に三〇棹から五〇棹も舟で出したほどの大モトジメで、「萬造さんが来なけりゃタンスの値が決められない」といわれたほどであった。萬造さんが明治末年に廃業したあと、この高尾地区には一〇軒ほどのモトジメがおり、四〇〜五〇数軒のハコヤが居た。その数は大よそ次のようになる。
 地区 モトジメ数 ハコヤ数
 丸山 四〜五軒  二五〜二六軒
 谷足 二〜三軒  二〇軒
 北袋 一軒    四〜五軒
 北原 一軒    二〜三軒
モトジメもハコヤも、いずれも農家である。ハコヤは十一月~五月までの農閑期の仕事であり、モトジメの所でも農作業は人を雇って続けていた。終戦直後、タンスの仕事はもうかるといううわさが区長の口から税務署に通じ、増加税がかけられ、物品税もかけられ、モトジメの仕事もうまみがなくなったので、皆やめてしまった。岡田為一さんは戦後すぐの金額で、二万円も税金をかけられたという。皆は税金を納めることができず、税金の方はそのうちにうやむやになってしまい、モトジメの方もやる人が居なくなってしまった。そうしたことがあって、それ以後、この地のハコヤは衰え、川越や岩槻の方が伸びていった。

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