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第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

16 ゾウリオモテ(草履表)

石戸宿では、ゾウリオモテ作りが盛んであった。ゾウリオモテとは下駄の上に貼りつけるものや、男物の上等なゾウリのオモテ、セッタ(雪駄)のオモテなどのことを言い、作っていたゾウリオモテの種類は
 ガズッペ(子供用の赤い鼻緒の草履)
 ゲタオモテ(女物と男物とがある)
 ゾウリオモテ(女物と男物とがある)
 セッタオモテ(男物だけであり、大小ある)
などがある。その作業工程には、一口で言えば、生地(きじ)屋、仕上げ屋・整理屋などの仕事があり、編み子に編んでもらって、それを集荷して型どりをする職人があった。

写真19 締めの機械

写真20 畳オモテ 仕上げの締め

写真21 締めのカタ

ゾウリオモテの材料は、昔からシロタケ(白竹)の皮が使われていたが、大正のころからシュロ 棕櫚)の葉が使われるようになった。白竹の皮は山梨県から取り寄せたりしたが、これも大正の十年ごろから中国皮が入るようになり、白竹皮で作ったものを南部オモテといったのに対して、中国皮製は新南部オモテというようになった。できあがりは、中国皮製の方が整った美しいクリ—厶色に仕上がった。しかし、新南部オモテは原料の中国竹の皮を過酸化水素で漂白してあったので持ちが悪く、南部オモテにはかなわなかった。南部オモテはベッコウ色の照りがでて美しく仕上がった。この南部オモテのいわれは、南部藩(岩手)が士族の家内職として作らせていたことから、この名がついたものという。
竹の皮は、白竹の皮であっても、竹皮の表面には星か胡麻のような斑点がついている。これを編む時にはひねって、その斑点を隠しながら編んだものであったという。白皮竹にも幹の皮と枝皮とがあり、枝皮の方はバラオモテといって、葉にブチ(斑点)はないが、薄くて短い(一五センチぐらい)ので仕事がはかどらなかった。竹の皮は個人ごとに漂白して使った。漂白の方法は、密閉した屋根つきの箱(五〜六尺四方)に太い煙出しをつけて底には割り竹を敷き、その下から硫黄を燃やして、そのガスで、さえた美しいベッコウ色に漂白した。昔は東京の三越や松屋などのデパートで売られたので、お互い争って良い物を作った。
大正五年、シュロ(棕櫚))の葉の若芽を漂白したものが出まわるようになり、和歌山県有田郡(紀の川の河岸)から、漂白したシュロの葉を買い入れて使いはじめた。シュロ皮は中国皮より長く滑らかなので、扱いがよく、またたく間に流行した。そのため、新南部(これを好む人も多くいた)の生産量は一割ほどになってしまった。昭和八年ごろ、地場産業奨励金が県から支給され、紀州(和歌山県)からシュロの種を買い入れて苗を作り、二〜三〇〇〇本のシュロの木を育てた。シュロの木は三〜四年でその葉が使えるようになったが、葉の繊維が浮きあがっていたので、当地のものはなめらかにはできにくかった。

図27 ケブシ小屋

図28 棕櫚の葉

その後も紀州(和歌山県)のものを仕入れた(白く漂白したもの)が、シュロの葉は芯をつけたまま、そのまま送られてくるので、作業に手間がかかった。
<製品化までの過程>
① 産地からの原料直送
② 生地屋 ⇔ ③ 編子
④ 仕上げ屋(シメ屋)
⑤ 整理屋(型どり屋)
⑥ 市場
⑦ 履物屋
<作業工程>
① 原料を乾燥させ水に浸す。
② オオハ、コハに分別。
③ 二尺釜で煮る(燃料は、薪・石炭)。
④ 天日に干して乾燥させる(三〜四日。乾燥不足は使用できない)。
⑤ 再び水に浸す。
⑥ 硫黄でけぶして色を出す。
⑦ 編む。
⑧ 締める(仕上げ屋)
⑨ 型をとる(整理屋)
<仕上げ屋と整理屋の仕事>
ゾウリオモテの型をとるシメ板は、備長炭(樫炭)を使って温めた。シメ板は樫材の木目の整ったものを選んで、よく枯れたものを用いた。一日の職人の手間賃は一円(ゾウリオモテ一足分)であった。昭和のはじめごろゾウリオモテは高級であったので、歌舞伎役者や力士・商人などしか履かなかった。一般人は式服(紋付羽織袴)を身につけた時に履く晴れの日の履物だった。

図29 カタ板

<ゾウリオモテの寸法>
女物
   五寸(一五センチ)
   五・五寸(一七センチ)
   六寸(十八センチ)
   六・五寸(十九センチ)
男(並)物
   七・二寸(二十一センチ)
   七・七寸(二十三センチ)
   ホンバツ寸(二十四センチ)
   八寸以上(二十四センチ以上)
力士は一尺(三十センチ)以上の注文もあった。
<ゾウリオモテの型>
銀柳(卵型の長いもの)---若い女性用
並型(男物の型)ーーー大、中、小の型がある
生地屋が、編み子に材料の生地を配り、一週間ほどで編みあげたものを集め、これを仕上げ屋で仕上げてもらい、東京に出した。また、大宮の仕上げ屋に卸したこともあった。原料のシュロの葉は六貫目(二四キログラム)ずつ、和歌山から藁のムシロに包まれ貨車で送られて来た。

図30 編み台

大正期には、月に五〇荷から六〇荷(一トン近く)を処理したものであった。これを乾かすときは、よその家の庭を借りるなどして、包みのムシロを敷いて、その上にシュロの葉を広げて乾した。このようにしてよく乾燥させた葉を、一釜に一貫八〇〇匁(七キログラム)ほどずつ入れて煮あげ、再びムシロの上で乾燥させた。これを、昼ごろまで一五釜も煮たので忙しいものであった。忙しい時は、夜の一〇時ごろまでシュロの葉をさく仕事をし、朝の一時に釜に火を入れるなどといった日を送ったことも多くあった。冬場は乾燥に一週間もかかったので出し入れの作業がたいへんだった。このゾウリオモテを編む編み子の仕事はすべて女の仕事であった。したがって編み子として上手な娘は嫁の口が多くあった。女逹は冬場の農閑期になる秋から春の間が忙しくなる。夜ナべ仕事も多くなり、菜種油の灯芯の明りで、遅くまでゾウリオモテを編む仕事をした。シュロの若葉は大きくなってもその大きさは同じである。一枚ごとに葉の芯をとってさくと二枚になる(一枚の長さは五〇センチぐらい)。これをハタスにかけたシバ(道辺や川辺にある芯のしっかりした草)で綯(な)った縄に組み入れて、つぎつぎに継ぎ足しながら編んでいく。娘達は小学校を出るとすぐに編み方を習いはじめたものであった。ゾウリオモテの材料は、シュロの葉の他に芯にする縄が必要である。これは編み子である各農家で、シバを乾燥させて、縄に綯っておく(川シバは二メートルほどあり、道シバは三〇センチほどしかない)。個々の農家では生地屋から材料を受けて編んでいたのであるが、手間賃は安いもので、一足七〜八銭であり、高いものでも一五〜一六銭であった。

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