北本市史 民俗編 民俗編一覧

全般 >> 北本市史 >> 民俗編 >> 民俗編一覧

第4章 職人と技術

第1節 日常生活と職人

7 ダイク(大工)

高尾の鯨井満男さん(明治三十九年生)の先代清助さんは、明治十年の生まれであるが、大工の修業は熊谷の大畑捨五郎さんの所でした。二代目の満男さんは父の妹の縁故である東京深川の本田さんの所(四〇人もの大工がいたが、戦災で絶えた)で二〇歳から四四歳のころまで働いたが、修業をしたのは深川大橋のたもとにあったシマトウ(嶋藤)であった。三代目の敬さんがあとを継いで仕事をしていたが、昭和五十七年に亡くなり、満男さんは七七歳で再び仕事にでるようになつた。
カンナは明治以前からあったらしい。はじめは一枚カンナであった。先代の話では、矢部さんの家を作った時(明治二十五、六年ごろ)から二枚カンナが出まわったという。このころに頭のついた釘もできた(それまでは角クギであった)。二枚合わせ(カンナの刃が)のカンナは一枚カンナに比べて、木の膚の色が白っぼくあがる。そうしたことから、うるさい人は、一枚カンナで仕上げるよう注文してきたものであった。戦前まで仕上げ師という仕事人がいた。カンナを持って歩いて仕事になったものである。大工はこの他にアナヤ(穴屋ー建前のまえに組みこみの穴を削る仕事)やソマヤ(杣屋ーマサカリでメンカワのついた柱を作る職人で、吉野杉の丸太を使ったものだが、これは茶室などに用いられた)などがあった。
昔は、製材所で挽いてきた柱にスミ(墨)を入れ、チョウナで狂いを直したものであった。特にケヤ材(欅材)は狂いのでることの多い木なので、チョウナを使ったケヤ材は切りだしてから五年経ったものでないと買わなかった。これを製材しておいて、さらに四、五年してチョウナで狂いを直して使ったので、けっきょく、使うまでには一〇年もかかる。大正から昭和にかけて、ケヤ材は鴻巣の池田さんや松山・熊谷・川越のタントクさんなど四軒ほどの所でしか扱っていなかった。
草屋根の合掌造りは、一本の杉や檜(ひのき)から柱をとった残りの部分の丸太で作ったものである。タル木は竹であったが、丸太の方が扱いよかった。
<道具>
ノコ(鋸)
山から出たハガネ(鋼鉄)で作ったものが良いという。現在の刃物のほとんどのものは新潟の三条物を使っているが、切れ味の良いものは少ない。鍛(きた)え方が悪く、サビのでるのが早い。鴻巣の山王横町の秋本という自転車屋の爺さんは五代甚五郎といわれ、ノコギリ作りの名人として知られていた。
カナヅチ(金槌)
カナヅチにはヒラ(平)の面とトツ(凸)の面とがある。ヒラのシン(芯)はカネ(鉄)でできており、まわりはハガネである。トツは表面が少しでており、全面ハガネで覆われている。カナヅチ全体をハガネで作ってあるカナヅチは大工は使わない。また、ハコヤやタンスを作る職人のカナヅチは、ハガネは入っていない。カワラヤ(瓦屋)のカナヅチはまわりはハガネでシンはカネである。ゲンノウは、両面ともハガネがはってある。

図12 カナヅチ(金槌)

チョウナ(手斧)
 桶川の稲山さんは軽くてよいものを作ってくれた。チョウナは刃の長いものや重いものは扱いにくい。柱作りには穂先が短く、軽いものを使った。仕上げや松材などをハツッタ(削った)りするものは穂先の長いものを使う。チョウナは便利なもので、門柱の矢羽根造りなどの細工をすることもできる。
一般的にはカンナは台と砥ぎ方できまるといい、ノコは目立てできまり、ノミは砥ぎ方できまるといった。カンナは東京の重勝とか、国広の銘のあるものがよかった。戦前、高尾、荒井近辺には、大畑、深井、矢部、大沢、関根、鈴木、鯨井の七名の大工がいた。
荒井の新井孝美さん(大正十一年生)は一四歳の時に高等小学校を卒業しないで奉公に出た。奉公先は南吉見で大工をしていた母の実家であった。六年奉公して兵隊検査を受け、その後出征し、終戦とともに帰ってきてからは、東京に日雇いの形ででかけて仕事をした。特に料理屋の仕事が多かった。
家に落着いて仕事ができるようになったのは昭和三十年に北千住の慈願寺を請負った時からである。慈願寺の仕事は叔父(母の弟)から頼まれ、はじめて請負ったものであった。この時に彫刻師の高橋勘次さんと知りあい、その後交際をつづけている。その後、伊豆下田の永林寺のドウミヤ仕事を、昭和四十三年から四年がかりで請け負った。ふだんは民家の建築をしているので、競争してまでドウミヤ仕事(お寺や神社の建築)をするっもりもなく宣伝もしない。須賀神社の仕事は、氏子総代から依頼があり請負った。ケヤ材は鴻巣のケヤキ材を専門にしている下田材木店からとり、他の材は近所の深井材木店からとった。彫刻は高橋勘次さんに頼んだ。昭和五十六年に話があり、今年(五十八年)の六月に完成し、七月三日に遷宮祭をした。
大工道具は戦時中は鴻巣の清水金物店で買ったが、吉見にいたころは東松山の釘要(クギヨ)(?)で買ったものである。戦後、東京で仕事をしていたころは、浅草の国際通りの裏の店で買った。

<< 前のページに戻る