北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

はじめに
この章の記述の観点をいくつか述べたいと思う。
一、主としてムラの生活について述べる。
北本市域の住民は、台地上の村で長い間自給的な農民の生活を続けてきた。商工業者の住む町場といえる場所はなかったといってよい。職人の多くはいわゆる農閑渡世であった。
また、かつての農家は、イッケ、クミ、ムラなどに支えられながら可能な限り衣食住やそれぞれの素材を自給し、イッケ、クミ、ムラなどとの関係で、着、食べ、住んだ。このようなムラの生活様式は、北本市域では、太平洋戦争や戦後の経済・社会の大変革を受けながらも、昭和三十年代前半までは、かなり多くの事柄が維持されてきたと思われる。
二、日常(ケ)と非日常(ハレ)の違いを明確に。
農民の日常は、朝から晩まで働きどおしであったから、基本的には、着るとは農作業のため(野良着)、食うとは農作業のため(腹一杯麦飯をつめ込む)、母屋は雨天の日や夜など屋外でできない農作業をする作業場であり、明日農作業するための寝所であった。
農民の生活は、このように土と汗にまみれた生活の連続であったが、このような日常に年中行事、冠婚葬祭など、いわゆるハレの日がはさまり節目がつけられた。非日常のハレの日に、服装、食べ物、住まいは日常とは比較にならないほど立派に様変わりをとげる。羽織・袴、白い米の飯・酒、床にはあっどこ(畳)を敷く。これをさかいに、身体、心も改まり、明日からまた長く続く日常への活力を呼び戻したのであった。
三、イエによる差が大きいこと。
北本市域は、農業生産のための自然条件が比較的均一で、大きな川や谷などのようなムラとムラを隔てるような障害の少ない地域である。年中行事や信仰なども市域一帯大差はない。衣食住についても、地域差は少なく、イエごとの差が大きいのである。主な原因は、イエごとの経済力の差であろう。衣食などは日常はあまり変わらないが、祝いごとや葬式などハレの日のイエによる差は大きい。
農地解放以前、農家間の貧富の差は大きく、さまざまな階層のイエがムラを構成していたわけである。本章は各イエの貧富に直接かかわる内容が多いため、とかく上層農家の記述が多くなりがちである。かつての小作農層のイエの記述は貧弱である。家の造り、婚礼の様子など中・下層農家の場合、資料を得にくいものがあるからである。従って、本文中の事例に地域名が記入されている場合、多くはその地域の上層、ないしは中層農家の場合が多いことを注意して読んで欲しい。
四、時代による変化をつかむ。
主な転換点はおよそ次のようである。高齢者は、「震災後、ずいぶん変わった。」という。押し麦を食べ始めたのはこのころからのようだ。木綿はすでに明治時代に購入していた。
昭和初期からの農機具の発達はめざましかったが、北本市域でもその導入はかなりすすんだようだ。クルリボウが使われなくなり、ダイドコロ(土間)の利用に影響をあたえている。また、昭和十年ころまでは、養蚕の全盛期でザシキが改造されたりしている。男の野良着の洋服化がすすんだ。
戦中。物資の統制、やがて絶対的な不足。農村にあっても、衣食の供給は困難を極めた。衣食住に関する伝統的な行事が少なからず失われた。女性がモンペをはくようになった。
終戦後。引き続き衣食の供給は困難を極め、低い水準におかれた。供出で農家にも食べ物はなかった。戦中から、母親などの着物をこわし仕事着や子供の服に作りかえる生活が続いた。一方では、農地改革、「家」の廃止など経済・社会的改革が進行していった。二十年代の終わりごろには、農業生産も戦前の水準を越した。これに加えて農業の機械化が進行し、都市的な生活様式がとめどもなく流れ込むようになった。
三十年代後半からは経済の高度成長の時代に入り、伝統的な生活は一変してしまった。
つぎに、各節ごとの記述の観点と主な記述対象を述べておく。
〔衣生活〕記述の対象として、まず、身体を覆うものを頭のてっぺんから足先まで、かぶる・着る・履くなどのものをとりあげ、それらの身に付けかた、使い方を述べる。これらのものは、時代・性・年齢・仕事・季節・日常非日常などの違いにより、様々に書きわけ、ついで、これらの調達の仕方、つまり、紡ぐ・織る・染める、または布を購入・裁つ・縫う・管理の仕方、つまり、着せる・洗濯・繕う・簞笥などへの保管などのことがらを述べる。なお、衣類の図をできるだけ多く掲載した。これは、写真では表現できない裏側などを図化することにより全体像を把握できるようにしたもの である。
以上のことがらは、本文冒頭にあるように次のように整理軸をおき述べていく。「衣類の調達・管理は、いつの時代にも女性の肩にその責任がかかっている。・・・・衣類の変遷を女性の一生に重ね合わせてみていくことにしたい」。
〔食生活〕まず、日常のいわゆる「三度三度の飯」について述べる。
「主食」は、畑作地であったから、麦が五〜七割入る麦飯であった。麦飯だと腹が減りやすいから普通で三杯、若い者や働き盛りの人は五杯も食ったという。「栄養のことなどよりもただ腹一杯になればよいといった考え方が中心であった。」また、白い米の飯があれば、おかずはいらない、などといわれた。
以上のことがらが、市域の食生活の基調をなしていた。なお、米だけの飯を食べるようになったのは、昭和三十〜四十年以降のことである。
「副食」の基本は塩気である。塩気の効いた漬物、梅干しなどは欠かせない。野良仕事で汗をかき失った塩分の補給の意味もあるが、塩味の助けで麦飯を腹一杯食うという感じが強い。味噌汁も二杯は飲んだ。やはり塩気をとることが主なねらいである。
「間食」は、腹にたまるものを食った。農繁期には、間食を入れると五度も食事をとった。
「醤油」は、絞るとき醤油屋に頼んだりして金がかかるので、なるべく「味噌」を使うようにした。
つぎに、ハレの日の食事を述べる。
ハレの日の食物をシナガワリといった。シナガワリの主な素材は、米、小豆、小麦粉である。餅、ぼたもち、赤飯、小豆飯、小豆粥、団子、まんじゅう、手打ちうどんなどである。お盆には「朝はボタモチ、昼間はウドン、夜は米の飯にトウナス汁よ」など、行事ごとに作られるものはほぼ決まっていた。米の飯、餅を食うと力が付くといい、体力の充実感を覚え、小豆の赤色はお祝いの色であり精神的な高揚を感じたのである。
客には手間のかかる手打ちうどん、油を多く消費するテンプラ揚げでもてなした。
なお、「食生活」は、家ごとの違い、時代による変化も大きい。さらに、年中行事や人生儀礼、信仰、俗信などとのかかわりが強いので、それらに該当する章や節も参照して欲しい。
〔住生活〕まず、生産の場としての住まいについて述べる。
母屋、付属舎、庭などは、収穫などの農作業を能率良く行うために相互に強い有機的な関係を持っている。特に、母屋のデエドコロ、付属舎のキゴヤ、ニワは重要である。一方、流し、生ごみ、溜(ため)、風呂の流し水、便所、灰小屋、家畜舎などを巧みに結びつけ肥料の自給態勢をとっていたことにもふれる。
ついで、母屋の寝所、食生活の場としての使い方、また燃料、瞭明にもふれる。さらに、母屋のデエ・ザシキ・アガリハナなどの外に開かれた部分にもふれる。
終わりに、建築儀礼にふれる。

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