北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第1節 衣生活

2 通学の服装

明治三十年代から大正時代
女の子は、サラシかメリャスの襦袢に絣の着物を着て、三尺帯を締めた。男の子は、简袖の絣や縞(しま)が多かった。三尺帯は、木綿の自家製がほとんどだったが、お大尽の子には、メリンスの子もいた。高等科卒業までは三尺帯で、半幅帯を締めるのは娘になってからだった。
夏は、白地の単衣物(ひとえもの)を着た。秋から冬にかけては、元禄袖の二コニコ絣の袷を着た。長く着る子は足首までの長さにしたが、普通は、ふくらはぎまでになるように腰上げをした。袷の上に、羽織や綿入ればんてんを着た。
肌着は、上は襦袢、下はひざくらいまでの腰まきだった。男の子はフンドシだった。Cさん(女)は、大正九年に初めてメリヤスのももひきを買ってもらった。温かく、肌ざわりがよく、ももひきを見せたくて着物をわざと短かく着たくらいだったという。
冬でも「からっつね」の子が多かったが、フラノの脚絆(きゃはん)を作ってもらう子もいた。脚絆は筒に縫ってあり、上にひもがあり、ふくらはぎの上で結んだ。下にはボタンがひとつあり、足首のところで締めるようになっていた。
式典のときには、銘仙の袂袖の着物に、女の子はなす紺かえび茶の袴(はかま)、男の子は縞の袴を着て登校した。明治時代には、袴のない子の方が多かった。
駆けっこが速く、石戸学校の代表として川田谷や馬室へよく走りに行ったDさん(女)によると、大正十三年ころの走るときの服装は、サラシの襦袢にレースの袖をつけ、下はパンツの上にえび茶の袴をひざより上までくるように短くしてはいたという。
履き物は、下駄か麻裏ぞうり、または、裸足だった。

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