北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第1節 衣生活

2 通学の服装

太平洋戦争前
昭和初期の小学生は、ほとんど着物だった。四月から六月初めまではネルの着物で、女はピンク、男は黒っぽい縞模様だった。夏は浴衣。秋から冬にかけては袷で、うんと寒くなるとチャンチャンコや綿入ればんてんを重ねた。子ども用の絣は、紺絣なら上等で普通は染絣だった。着物の袂(たもと)にお手玉、腰あげにおはじきをジャラジャラ入れて歩いた。

写真3 女学生

(昭和初期)

写真4 女性と子ども

(昭和30年ころ)

大正十二年の大震災のあとからズロースをはくようになってきていたが、昭和の初めは、ズロースをはいていない子がほとんどだった。しかし、夏になると「かんたん服」「ブラウスにスカー卜」「体操服」(開襟シャツに下は紺の粗いひだのスカート)を着るようになり、ズロースをはいた。同じころでも、冬は袷の着物がほとんどで、そのときはズロースではなく腰まきや、ももひきだった。男の子が、女の子の着物をまくしあげてはズロースをはいているとか、いないとか大騒ぎをした。
冬でも襟巻(えりま)きや手袋もせず、「ふところ手」をして通学した。学校の上履きは、赤い鼻緒のぞうりだったが、はけない人がずいぶんいた。
式典のとき、女の子はえび茶のメリンスの袴に、袂袖の着物だった。よい家では、絹の着物にカシミヤの袴だった。高等科になると、セーラー服の人もいた。
男の子の冬の服装は、紺絣の袷と羽織だった。袖は筒袖で、三尺帯を締めていた。下着は、メリヤスのももひきの下にサルマタをはいていた。夏は白いシャツに半ズボンか長ズボンだった。詰め襟の洋服を着ていたのは二、三人だった。
かばんは、男女ともズックの下げかばんが普通だった。男は白、女は白に花など刺しゅうしたものだった。よい家ではベッチンの下げかばんの人もいたが、珍しかった。ランドセルも珍しく、東京に親類のある人などが背負っていたが、みんなにいたずらされて、本人はランドセルがいやでしょうがなかったという。高等科にもなると、女の子は、自分で手下げ袋を作ったりした。履き物は、駒下駄が普通だったが、裸足の人もまだいた。

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