北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第1節 衣生活

3 娘時代

お針のけいこ
学校を出た娘たちは、ほとんどみんな秋から春遅くまで「お針」に通った。師匠によって教える順序など少し違うが、だいたい次のようであった。
手ぬぐいを使った運針から始まり、サラシの襦袢、子ども物、大人の単衣物、大人の袷、羽織の順に習った。その間に、野良着のモモヒキやジュバンの作り方も習った。羽織まで習わずに終わる人が多かった。二冬も通えば嫁に行ってしまう人が多かった。子守り奉公している娘は冬の間、二か月くらい奉公を休んでお針に通った。しかし、二か月くらいずつ二冬通ったくらいでは、ほとんど縫えるようにはならなかった。
九丁の「峯尾裁縫場」、鴻巣の「福島裁縫場」などは、冬場かなりの人数のお針子をかかえていた。その他に、近所の裁縫上手な女性に習う人もいた。師匠へのお礼は節供のときにお金でした。そのとき、師匠のうちでお茶やお菓子をごちそうになった。

写真6 江戸棲

(昭和9年)

秋早く仕事をおえ、春はできるだけ遅くまで通った。三冬通うとひととおりのものは縫えるようになった。綿を入れるのは難しく、ネンネコ、カイマキ、綿入れはお針の最後に習った。四年以上通うと、名古屋帯、袋帯、銘仙、絽、金鈔(きんしゃ)そして袴や江戸棲(えどづま)まで縫えるようになった。三年とは通わない人の方が多かった。縫ったものは嫁入り準備としてしまっておいた。嫁入りの日のためにと、親は新しい反物を用意してくれた。
着物(和服)の時代は季節ごとの衣類が細かく分かれていた。春のネル、セル(もののよい木綿)から銘仙、夏の絽、そして袷、綿入れ、チャンチャンコ、それぞれの下着と何種類も必要だった。お針を習いながら縫いためておいた。
ふとんの作り方は、お針の先生から習ったり、母親から教えてもらったりした。五十代の人ならふとんは縫えるだろう。昔のフトンガワは、生地が弱く、冬になるとこわして板に張ってのりづけし、すりきれたところは切り取って、新しい布を足して作りかえた。そのとき、綿は綿屋へ出して打ち直してもらった。
昭和二十五年ころにはミシンを持ってお嫁に行く人がではじめた。

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