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第6章 衣・食・住

第1節 衣生活

6 衣類の調達と管理

機織り(絹)
古くは自分の家でお蚕を飼い、糸を取り、織っていた。養蚕を仕事とする家では出荷できない玉繭やビショ繭を使って自家用糸を取っていた。それ以外の家でも家族の着る物を作るために春蚕(はるこ)だけする家が多かった。大百姓の家では田ん中や畑が忙しいので糸取りをする人を年に何日間か雇って糸を取らせていた。自分で織らず、自家製の糸を機織りを専門とする人のところへもっていって織ってもらう人もいた。普段着用は自分で織り、よい物は専門の人に織ってもらう場合もあった。
深井には、「若山」と「林」(屋号 マツノキ)という二軒の機屋があった。若山には三台、マツノキには二台のハタシ(機織り機)があり、姑、嫁、娘が専門に織っていた。平絹や縮緬などいいものは機屋にたのんだ。昭和の初めはとても忙しそうに織っていた。
沼尻カツさん(深井 明治三十八年生)は、機織りを專門にしていた。母の代から織っており、昭和四十年近くまで人にたのまれて織っていた。農家では、機があっても忙しくて織れない家も多く、そんな人が機屋に自家用布を織ってもらった。以下は沼尻さんの話である。
せい出して織ると、二日で一反織ることができた。しかし、糸操り、縒(よ)りかけなどからする仕事だと、一反できあがるまでに十日くらいかかった。織り始めるまでの準備に時間がかかった。あずかった糸に縒りをかけてから紺屋へ出すが、着る人の年齢を考えて自分で色を指定してやった。沼尻家には三台の機があり、一台は「オオハバ」と呼ばれるものだった。二尺五寸の縮緬のへこ帯を専門に織る機である。オオハバで織る仕事は、一年にー、二本しかなかった。オオハバで織るのは投げ杼(ひ)が大変だった。右手で投げ、左手で受け、左手で投げ、右手で受けと体を左右に大きく動かさなければならず大変な仕事だった。角帯も織った。普段用の帯は、よこ糸にボロ布を裂いて織ったりしたが、これは農家の人が自分で織っていた。
機織りをすると自分の着物の袖が痛んでしょうがなかった。伸子(しんし)の爪や織っている反物の耳でこすれ、どんなにタスキなどしても袖が痛んだ。
お蚕を飼っていない人は糸を買って織った。農家が自家用にとっておいたが使わずじまいになっているような糸を買い集め、農家ではない人や機織りを専門にしている人へ売り歩く商売の人がいた。

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