北本市史 民俗編 民俗編一覧
第6章 衣・食・住
第2節 食生活
2 日常の食物
主食日常の食事は麦飯が主食であり、手加減で水の量をみて、米の飯と同じように炊きあげる。この麦飯の米と麦を混ぜる割合は、市内各地で米三割・麦七割といわれることが多いが、必ずしもすべてがそうであったわけではない。
〇大正の初期には米が一割程度、その後に三割くらい米を入れるようになった(下石戸下)
〇昭和の初めころで半々、戦後になって米七割に麦三割(東間)
〇三対七の割合であったが、昭和二十二〜二十三年ころに半々になった(深井)
〇普段食べる麦飯は、一升の中に米は一~二合しか入っていなかった。(荒井)
〇米六~七割に麦が三~四割だが、一般的には麦は四割であった。(高尾)
〇上等の家で米七割に麦三割。本当にお大尽の家では米ばかりの飯を食べていたが、このような家では奉公人の食べる麦飯を別窯で炊いていた。
このように、実際にはその割合は、家ごとの置かれた状況や時代などによっても変わっていると考えた方が妥当である。
この大麦はヒキワリといって、石ウス(臼)でひき割った麦を混ぜて炊いていた。ヒキワリと混ぜた麦飯をワリメシあるいはシキリメシという。ヒキワリより以前には、マルムギ(ついたままで押しつぶしていない丸い麦)を食べたらしいというが、実際に食べた人は現在見当たらないようである。また、麦はヒキワリの麦からオシムギ(ヒキワリに対して、押しつぶして平たくした麦)に次第に変わるが、その時期などは次のとおりである。
〇昭和十二年ころには自家に機械を入れてオシムギを食べた。ヒキワリの方が腹が減らなかった(深井)
〇大正の前半はヒキワリだが、昭和の初めにオシムギになった(東間)
〇ヒキワリ麦はいくらも食べず、すぐにオシムギになった。ヒキワリの方が甘味があり、炊いたときの体裁はよかつた(常光別所)
〇ヒキワリからオシムギに変わったのは、昭和十年ころではないかという。オシムギになるころは米の割合を多くして半々くらいにした(北中丸)
〇ワリムギからオシムギになったのは大正のしまいころである。オシムギの方が食べよかった。オシムギになっても、米と麦の割合は同じくらいか時代の成り行きにより少し米が増えた程度であった(下石戸下)
〇オシムギに変わったのは五〇年くらい前で、精米所ができてからである。オシムギを食べてみたところのめっこくて食べよかったので、しだいにヒキワリから変わった(荒井)
〇オシムギになったのは大正時代で、精米所から教えられた(高尾)
〇オシムギには大正七〜八年ころなった。オシムギにするとのめっこくて、米が少しでも食べられた(高尾)
図11 ジガラ
麦をヒキワリにするには、まず土用のころに大麦をジガラ(踏み臼)か手ギネ(杵)でついて精白する。ジガラは杵を足で踏むようになっているもので、農家には備えつけてあった(ジガラバといったが、荒井の明治三三年生の人によると、その人がまだ小さいうちは踏み臼を使っていたものの、その後、よく乾かした麦を臼と杵でつくようになったという)、臼と杵でつくときは、餅つき用より大きなものを使い、臼は二斗くらい入るものであった。麦つきは麦のフンドシがなかなかとれず、一人では飽きてしまうので、イイヅキといい、昼間若い衆が寄って隣から隣というように大勢でつくことがあった。麦をつくときは少し水を使うが、これは、天気のいいときに干して乾燥させてあるので湿り気を加えてやる。臼の中にはついた麦が飛び出さないように、ワラ(藁)で作った輪を入れる。麦つきは男の仕事で、一日に一俵くらいついた。ついたままでは食べられないので、干してからトウミでぬかを飛ばし、もう一度仕上げにきれいにつく。ぬかは馬や豚の飼料とした。また、精米所や業者(馬力や発動機を使って麦をついた)に持って行って、麦をついてもらうこともあった。
写真11 ワリウス
オシムギになると、農家が自家でジガラをついたり石臼でひいたりすることはなく、精米所に持って行って機械でオシムギにしてもらった。精米所はあちこちにできたが、旧石戸村(下石戸上、下・石戸宿・高尾・荒井を含む地域)では、荒井の福島という人が桶川から電気を引いて始めたのが最初であるという。このほかにも石戸村には三軒くらいあり、古市場(小川精米所)・中丸などにもあった。鴻巣へ行く方が近いということで、鴻巣まで行った人もあった。
麦と混ぜる米については、秋に稲を収穫した後、ヨナべ(オナベ)仕事や雨が降ったときにカラウスヒキをする。カラウスはザル状のものの中に泥を詰めたもので、これを男も女も三人がかりでひいてもみ殻をとる。二時間で三〜四俵ひけるが、ろうそくを一本たててそれが燃え尽きるまでひけといった。
そして、このもみ殻をとって玄米にしたものを、麦と同様に、臼と杵でついてこぬかを取り除く。臼の中には麦の場合と同様に、藁で作った輪を入れ、その輪の中に杵を打ち落とすようにする。藁の輪を入れるのは、つき上がった米が輪の下から出て、それにかわってまだつけないものが上から入ってくるためである。米つきの仕事は、二、三人の人を頼んで話でもしながら一度に多くの量をやってしまうこともあったが、たいていは一一月ころに自家だけで行っていた。また、一度につかないで、作り置きがなくなるごとにつくこともあった。精米所になってからは、ニ〜四斗くらいずつ持って行ってついた。この作業も麦のヒキワリと同様に、子供のころ見ていただけで自分ではしたことがない、あるいは多少の経験がある程度といった人もみられる。
このようにして調製した米や麦など穀物の保存は、俵やタル(樽)、家によってドウコ(トタン細工の職人に二斗も入るものを作ってもらう人もいた)などに入れて物置に置いておき、普段使う分をオカッテにあるコクビツ(コメビツ)や袋にとっておいた。炊く時にはここから量り出し、なくなったら俵などから取り出してきた。なお、芋類はモロ (室)を掘って一冬保存する。庭先などの高いところを見つけて六尺くらい掘り、三方に横穴を掘ったもの。サツマイモは束ねてモロに積んでおく。また、畑などへ 二尺くらいの深さに掘ったオカムロで保存することもあった。これは芋の上に藁をかけ、さらに土をかけて雨よけとする。サトイモはよくオカムロで保存したともいう。
麦飯のほかに、日常の食事にウドンを食べることもあり、夏はショウユ(醤油)たれのつけめん、冬は煮込みにするが、夏の暑いときに仕事をして帰ってきたヒルメシなどには、ヒヤシルを食べた。これは井戸からくみ上げたつめたい水で味噌をのばし、ゴマなどを入れたたれでウドンを食べるもので、キュウリやネギなどの野菜も刻んで入れたり、テンプラをつけて食べたりした。このヒヤシルを味噌汁がわりにすることもあった。今でもヒヤシルでウドンを食べる家がある。