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第6章 衣・食・住

第2節 食生活

4 味噌と醤油

味噌
調味料の中で、味噌は味噌汁や味噌漬けなどでなじみ深く、第二次世界大戦後も多くの家で大豆やコウジを用意し、自家で味噌を作っていた。ここでは、北中丸の某家で間いた味噌作りの方法を中心に述べていくことにする。
味噌は一年おきくらいに、一度に四斗樽で二、三本作っていた。味噌を作るには大豆と塩、コウジを作るのに使う大麦が必要で、大豆と麦は四斗樽一本につき同量の一斗五升、塩を七升程度用意する。
まず、大麦を精米所に持って行き、皮を取ってもらったものを家に持ってきて、一昼夜くらい水に浸しておく。それを三〇分くらいセイロで蒸し、ふけたら床を作ってねかす。床は、藁をおいてそれにムシロをのせたもので、ここに麦を置き、アラネツといっていくらかヌクヌク暖かいときにコウジ菌を混ぜる。コウジ菌は鴻巣の大黒屋という種屋から買ったが、味噌を何本炊くというとそれに必要なコウジ菌をよこした。コウジ菌をよく混ぜたらその上にすっかりムシロをかけて寝かせる。一昼夜くらいで熱がくるが、これをかまわず置いておくと、黒いコウジができて使えないので、それを防ぐために床に手を入れてかき混ぜる。この作業をコウジの加減を見ながら繰り返して行い、コウジをムシロ一杯に広げてまたムシロを掛けておく。こうして菌が全体に付くようにするのが寝かせ方の一番のコツで、真黄色なコウジを作るようにする。三日くらいでコウジができ、だんだん熱が冷めてくる。この間は油断ができないことになる。すっかり熱が冷めて塩を入れてしまえば、菌は繁殖しない。五升ほど加えて四斗樽に入れておく。コウジ作りは、夏場の暑い時期に他の仕事の暇を見ながらやっておく。
大豆を収穫し、冬になるとその豆を煮て味噌炊きをする。まず豆を大釜で煮るが、ヤマの中にカマダンを立てて煮た(家の中にもカマダンはあるが、外の方が仕事がしやすいと醤油しぼりの職人が教えてくれた)。火は夕方に燃やしつけて、一晚くらい煮る。湯が煮えたってしばらくおくが、ころ合いをみて息が出ないようにふたをして、ふたの上には重しとして一斗くらい入るバケツを置く。豆は指と指で押してつぶれるくらいまで煮て、煮えたら餅つき用の二斗バリ臼で豆をつく。このとき、粒がなくなるまでつけばいいが、そんなにきれいにつぶれないので、昔の味噌は使うときにスリバチですってミソコシザルでこして使っていた。
豆がつぶれたら、この豆と作っておいたコウジ、塩、豆を煮た水(アメという)を手でいいかげんに混ぜて四斗樽につめ、物置の中の味噌部屋などに置いておく。味噌部屋は、穀物などを入れておく所の隣に壁を立てたもので、涼しく保管によい。このとき、樽の上には、塩が入っていたカマスを半分にきったものを乗せておく。空気が入らないようにするもので、空気が入ると味噌が黒くなってまずい。黒くなったものはフタミソといい、たくさんできてしまう
が、食べるときには捨てる。味噌は一度食べ出すと、味噌部屋に行ってシャモジで味噌を取ったついでに上をかき混ぜてやる。土用をすぎれば食べることができ、土用のころのものがちょうど良いともいう。味噌炊きは、豆をつくのは力仕事なので男が行うが、炊き込むのは女がしていた。
この大豆と大麦、塩の量は、仕込んでから食べるまでの時間などによっても異なり、荒井の某家では、豆一斗に麦一斗、塩八升くらいの割合で、いくらか豆が多い方がうまいものができたという。その家では、炊き込んでから一年間寝かしていたが、本当は二年くらい寝かした方がよいといい、味噌もその家ごとに材料の分量や細かい製法などが異なっていたわけで、味もそれぞれの家で微妙に異なっていた。コウジなどもコウジ菌を混ぜないで、時間をかけて自家で作っていた家もあったようである。
味噌樽には、大根やゴボウ・ナス・キュウリなどの野菜を隅に入れて味噌漬けを作った。
なお、荒井には味噌観音といわれる堂があるが、昔、かびて味が変わってしまった味噌を奉納したら味が直ったという話が伝わっており、それから味噌をこの観音堂に奉納することがあったという。

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