北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第3節 住居

1 屋敷取り

集落、屋敷の立地
北本市の集落は西は荒川、東は赤堀川の低地にはさまれた台地上に立地している。そして各農家は均一的な自然条件のもとに比較的自由な屋敷取りをしている。
台地上の村であっても極度の飲料水不足に悩まされたという伝承はないようだ。ただ、市内の古い農家は、台地の窪(くぼ)みをえらんで屋敷を構えていることが多い。また、家・屋敷が直接洪水の被害にあうということも、まれであった。かつて、現在の荒川河川敷には、高尾新田という小集落があり、常に水害にさらされていた。しかし、明治時代の末ごろから民家は移転を始め、荒川の河川改修の進行とともに昭和の初めごろまでには、市域の台地上に移転(一部は、現吉見町へ)を終えた。

写真16 斉藤徳治氏宅

(山中)

中山道が市域の真ん中を南北に縦断しているが、宿駅はなく、町場といえる所はなかった。かって、中山道沿いの農家が道に面した部分に開口部を持っていたこと、また、道に直角に建っている母屋に対し道に平行して曲がり部分を増築したことなどに、わずかに街道との関係がうかがわせられる。中には、道行く牛馬を使う運送業者の休憩所を営む者もいた。が、多くは農業の片手間仕事で、島台(縁台)に水の入った手桶、茶碗、それにわらじぐらいをのせ道端に出しておく。旅人は、思い思いに水を飲み、わらじを取り替え、なにがしかの金を置いていった。こんな程度であっても、当時、中山道端の家は「地所がなくても三町株」といわれたという。しかし、これも明治十六年以降鉄道が次第に北に伸びて行くと終わりであった。
台地の西端には、荒川に平行して鎌倉街道の脇往還とよばれる道が走っている。この道に面する石戸宿は市域で唯一街村的形態を示している。次に述べる「屋敷取り」にしても、他の地域とは異なった様子を示している。

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