北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第3節 住居

2 母屋

間取り
市内の典型的な民家の間取りは、全県的に分布する、幕末期に成立したいわゆる「田の字型」である。すなわち、長方形の主屋はデイコク・カミデイコク(大黒柱)を中心にして、土間と床の部分に分かれ、土間部分の面積がほぼ半分をしめ、床部分に四つの部屋(田の字。四間取り)をもつものである。また、市内の家はこれに加え、ほとんどの家が土間と床の境の土間部分にアガリハナとカッテを張り出している。この部分は、床部分より三〜四寸は低く、幅は六尺とほぼ決まっていて、板張りである。

写真23 三橋重雄氏宅

(常光別所)

図15 三橋重雄氏宅

(常光別所)(この図版「埼玉県の民家」P101より引用)

埼玉県内の四間取りは土間に沿って表から裏までの広い二つの部屋が並行する「広間型」を、単純にそれぞれを前後二室に割っただけで成立したものである。常光別所の三橋重雄さん旧宅は、四間取りの成立期の様子をよく示していた。アガリハナとカッテはなく、土間に沿ったニ室は「広間型」同様に共に土間境が開放にされ、前後二室の間仕切りだけに建具が入っていた。引き続き、土間との結び付きは強かったのである。やがて、多くの家の場合、前の部屋は縁台を置いたりアガリハナを張り出したりし、土間境に障子が入り、ザシキとして独立していく。後ろの部屋はカッテが張り出され、それに伴いイロリの移動があり、カッテザシキが土間と直接的な関係を持たない部屋として成立していった。

写真24 曲り家

関根利雄氏宅(本宿一丁目)

高尾の新井恒治さん旧宅のイロリの移動は、カッテが張りだされていく過程を示唆している。カッテザシキ(チャノマ)には、まったく使ったという言い伝えのない上イロリの跡があったという。カッテとカッテザシキの境は障子で仕切られていて、カッテには、床板をあげると明治時代には使ったらしい上イロリがあったのである。
床部分に六部屋をもつ大きな民家もある。ほとんどは田の字間取の西側に二部屋を加えたものである。中丸の加藤憲治さん宅の場合は、四間取りの裏に庇をおろし幅の狭い部屋を設けている。いずれも幕末に現れた最上層の民家である。
一方、二間程度の家もある。これは、間取の発達過程とは別で、農業の経営規模の差によるものである。
前記の荒井の遠藤家はもとは曲り家であったといい、今も屋根型にそのあとを濃くとどめている。昭和の初年に現在のように改めたと伝えられている。市内には、現在数件の曲り家があり、また、かつては中山道沿いには何軒もの曲り家があったと伝えられているが、ほとんどの家は創建からのものでなく、後に付け足されたもののようである。

図16 加藤憲治氏宅(中丸十丁目)

(この図版「埼玉県の民家」P102より引用)

図17 二間取の家の例

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