北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第3節 住居

2 母屋

イロリ・カマダン
ダイドコロの煮炊きする場所をイロリまたはカマダン・カマバといった。市内で、イロリというときは、この下イロリのことをいうのが普通である。なお、ダイドコロの後ろに庇をおろしカマヤとする家もあった。

写真30 カマダシ

イロリは、たいていの家の場合、カマドの焚き口が三か所くらい並びその中程か端に泥囲いのスぺースがあるという造りになっていた。左端には大釜を置く家が多い。これは日常的には使われず、人寄せ(客を招く)・餅つき・茶を蒸すとき、また、味噌炊きのときなど大豆を一度に二斗五升も煮たりした。高尾では、昭和十三年ころまではコウゾの産地だったので、コウゾを蒸すときも使った。
大釜の隣か右端には泥囲いの部分がありカギッツルシ・カギッチョが一〜二本梁から吊り下げられていて、真つ黒に煤けた鉄瓶がいつもかかっていた。カマドだけで、カギッツルシのない家も結構多い。この場合、カマドの前にカマドから火を搔きだし、五徳を置き、鉄瓶をかけた。カギッツルシを使った記憶のない家でも、「盆はカギッチョも休む」などという言葉を伝えているところからみると、カギッツルシを使い泥囲いの土間で火を燃すことは、かつては、市内で一般的に行われていたことなのであろう。
大釜用以外のカマドの造りは同じで、釜や鍋の直径の大きさの違いは鉄のツバを用い調節した。だいたい、左より五升・三升・ 一升炊き釜を置くかんじで、釜に代えて大鍋を置き味噌汁を作ったり、平釜でうどんをゆでたりした。
なお、カマドは左官屋などにツイテ(作って)もらう カマダンツキという。泥で作るが炊き口にはレンガを使い、外は黒の漆喰でてかてか光るように作る。このようなカマドは、昭和十五年くらいまでに新宅に出た人の家(分家、新築)にはあったが、その後(戦中以降)の家では作らなくなったという。昭和十八年ころから、モミガラカマドなどというものが出始めた。
カッテの床を切って作るイロリ(上イロリ)があった家は極めて少なかった。しかし、明治時代の半ばころであろうか、上イロリを使った痕跡のある家があることから考えると、市域は伝統的に上イロリがない地域ということではなく、ある時期から、何かの理由で作られなくなったのであろう。

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