北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第3節 住居

3 付属屋

井 戸

写真37 井戸屋形(高尾)

井戸は屋外にあるのが普通で、多くの家ではセドグチを出たところにあった。「井戸屋形」「井戸御殿」などといわれる小屋をもつ井戸もあったが、多くは井戸枠にポンプだけであった。井戸に「流し」がついたのは、大正以降だという。それ以前は、石などの台を置き、その上に桶、鍋、釜を置いて水を受けていた。使い流した水は近くの「溜め」に流した。この溜めをセイナダメといった。洗いものをした水をセイナという。
井戸の深さは、狭い範囲でも微妙にちがっているが、概して、荒川沿岸は深く、東の方は浅かったようだ。少々降水量の多い年には、北中丸では六〜七尺、谷足では四〜五尺で手桶で汲めたというほど浅かったという。高尾ではだいたい三〇尺以上、深いところでは四二尺もあった。浅い下石戸下、北中丸、谷足では戦争前から弁が一つの汲み上げポンプが使われていたが、四二尺もあると地下一五尺の所にもう一つ弁を置き二つの弁で汲み上げねばならなかった。このような深井戸に使える長い竹はなかなかみつからず、戦後もしばらくは「つるべ井戸」を使っていたのである。だいたい、荒川沿岸の高尾、荒井、石戸宿では、このような状態であった。鉄管やビニールパイプが思うように安く手に入るようになって初めて、「押し上げポンプ」で水を汲めるようになったのである。なお、昭和四十年には、自家水道が普及した。
冬、井戸替えが行われた。北中丸では、「ゲンバ(または、ゲンバ桶)」(かいば桶より大きい、二〜三斗入る。)で、水と泥を汲み出した。ゲンバは消防分団(四分団)毎に一〜二個あった。麻のロープで人間一人が井戸に降り、ゲンバに水と泥をいれると隣組の人が引き上げた。井戸は、すぼりで枠は上二つぐらいなもので浅かった。三尺も掘り下げるとずいぶん水の出が良くなったものだった。北中丸では、日常、貰い水してる家はなかったが、旱魃の年にポンプのみずが揚がらなくて困った経験はあるという。なお、北中丸では、「飲み井戸(飲料水用)は必ず二日掘りにする。一日に掘るもんじゃない。」といわれている。

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