北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第6章 衣・食・住

第3節 住居

4 燃料と照明

燃 料
燃料は自給が原則であったから、その家が主に何を燃料とするか、また十分な燃料を確保出来るのかは、その家の主な作物・経営規模、山林の所有の有無・広さ・樹種によってきまった。市域全体としては、主な燃料は、「木の葉」と「大麦・小麦のカラ(稈)」であった。なお、市域で「山」というときは、「平地林」をさしていう。
北中丸では、木の葉、特にマツゴク(松の葉)が良い燃料として好まれた。松は火のつきが良いし、火力がある。松山がないような家はクヌギなどの葉を使った。また、松葉が不足する家は焚き付けに松葉を使い、あとは雑木の小枝、クワディ(桑の木の枝)を燃した。小麦稈もよく使った。稲藁はこの辺りが田場所でないからあまり使えなかった。

写真39 薪置場(北中丸)

木の葉を集めるには「山掻き」をした。山搔きは、十一月ころから一月終わりまでの仕事で、平地林におおわれた台地上の市域では、あちこちで見られた冬の仕事であった。かつて、山掻きをしたことのある人たちは、一様に、若いからできたことだ、とその仕事の大変さを振りかえっていう。
北本宿のある家では、松山を持っていたので、燃料は三六五日、マツゴク(松葉)だった。
荒井では、山林のなかでも特にナラ、クヌギが生えている山をナラ山、クヌギ山とかマキヤマ(薪山)という。薪を伐ったり落ち葉を集めたりしていた。薪はナラ、クヌギが一番よく、山師がマキコセイした。三〇年くらいの木をきり、薪は町(鴻巣)へ持っていき油と交換したり、炭に焼いた。
石戸宿でも主な燃料は、木の葉・小麦稈・クワディであった。その他、石戸宿では荒川の大水の後、一家総出で万能を持ち、荒川に流木を掘りに行った家が多かった。丸太などもあったが、火力は弱かったという。
火をつけるには、マッチを用いたが、かってはこれはなかなかの貴重品であった。できるだけマッチを使わないようにして、ツケギ(つけ木)を併用した。付け木は長方形の薄い木片で一端に硫黄が塗ってある。初め火を起こすときはマッチを用いるが、火だねができると、次からはマッチをすることはしないで、付け木で火を移したのである。必ずしも農家の燃料は十分ではなかった。自給が困難な家も多かったのである。山林のない家では、山林地主に山搔きをさせてもらった。荒川河川敷の草も冬になるときれいに刈り取られた。また、かつて、近所の家数軒で、お互いに風呂に入り合う習慣があった。これは、農繁期の労働力の節約や農閑期に歓談の時間をもつ意味もあったが、燃料の節約という意味も大きいのである。
燃料は、まず、野良仕事に必要なものを食うために使うものであって、汗と泥にまみれながらも、風呂はおいそれと焚けるものではなかったのである。まして、寒いから暖をとるなどということは、ぜいたくなことなのであった。
古老が以下のように回想している。
「家は夏には涼しいが、冬には風が入ってくるので寒かった。仕事をしないときにはアンカに風呂の燃やし火をケシツボにて消した炭を入れて暖を取った。上流家庭では冬には入口、裏口にはがんこな戸を付けた。レールは木で輪は瀬戸で六尺の戸をつけた。夏は『よじんコーシ』と云うて一寸角位の角材にてコーシを作り使用した。一般家庭では、夏は開け放し、冬は紙を節穴、隙問に貼って寒さをしのいだ。(高尾)
「ぼっこれ家じゃしょうがねえ。針ほどの穴から棒ほどの風がへえって、寒くてなんねや、と祖母がよく言ってました。寒いうちだった。昔の方が寒かった。今の西中(北本市立西中学校)の向こうからうちまで何にもなくって、風が吹きっばなしだった。南耕地の風で、家がなく、ピューピュー、冷たい風が風のうなりのようだった。」(下石戸下)
「火があるのは、泥の火鉢一つだったから、お客でも来ると、寒くって寒くって仕方なかった。年寄りがいれば、子供なんか火鉢のそばに寄らせてもらえなかった。」(中丸)

写真40 泥焼き火鉢

アガリハナには、木製長火鉢が置いてあり、クワディを折って燃した。後、陶製の大きな火鉢を置くようになったが、これは消し炭を使った。
アガリハナの土間には、大きな、黒くて平たい泥焼き(陶製)の火鉢が置いてあった。灰を入れてあり、小枝や桑根っ子を燃した。冷えた足を火鉢の縁にのせ、地下足袋のままあぶった。中には五徳を置き、いつも鉄瓶で湯を沸かしておいた。
「掘りこたつ」は、普通なかった。ネコゴタツといって、泥焼きの黒い三〇センチ立方ぐらいの置きこたつがあった。たどん、または「お火」(ご飯を炊いたあとの残り火)を使った。

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