北本市史 民俗編 民俗編一覧

全般 >> 北本市史 >> 民俗編 >> 民俗編一覧

第6章 衣・食・住

第3節 住居

4 燃料と照明

照 明
菜種油を燃すアンドンに代わり、石油ランプが明治二十年代か三十年代ころから使われだしたようだ。
石油ランプの芯は平芯がほとんどで、その幅には、二分から五分ぐらいのもの(二分リンなどといった。)があった。たいていの家では、二分リンか三分リンであった。電気に比べると石油ランプは暗く、しかも一家に一台カッテに置くのが一般的であった。カッテに吊るせば流しにもトボグチにも光が届くからであった。「遠くの方にランプが一つ。みかん箱の上で勉強したが、良く字が見えたと思う。」「二分リンで、機織りをした。ずいぶん暗かった。」という。ランプの炎を包むガラスの简をホヤというが、このホヤは油炎ですぐ黒くなり照度が落ちた。そこで、息を吹きかけ、柔らかいぼろきれで、毎日ホヤ磨きをしなくてはならなかった。これは、主に小さな手をした子供の仕事で、学校から帰ってくると、毎日やらされた。

写真41 石油ランプ

写真42 アンドン

電灯が入ったのは、大正の末で、石戸宿・高尾では大正十四年であった。普通は一灯のみで、やはりオカッテかアガリハナにつける家が多かった。光は赤みを帯びて弱かったが、電灯が初めてともされたときの喜びを、石戸宿のある古老は以下のように語っている。
「女は、本当に有り難いと思いましたね。以前は、夜中に子供にお乳をやるっていったって、暗くて見えやしません。手燭(てしょく)や豆ランプがあったけれど、火のもとが不便で、蚊屋でも吊ってると、蚊屋にすぐに火が着いてしまう。なんて、感謝して良いか。ランプの掃除はしなくて済むし。」
なお、電気が引かれるようになっても、石油ランプは風呂場や木小屋等に持ち運び出来る便利な明かりとしてながく使われた。また、終戦直後は停電が多く非常用になくてはならないものだった。

<< 前のページに戻る