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第7章 人の一生

第1節 産育

奉 公
昭和初期から戦前には、小学校を終えると若い衆はソウリヨウ(総領)以外は奉公に出る人が多かった。
デカワリ(出替・正月)から一年間いくらで契約をし、奉公先で夏のシキセ(仕着せ)、冬の仕着せといって二枚着物を作ってもらった。中にはブッパライといって、三度の飯も着るものも契約していない場合には、着るものも満足に与えてもらえなかったという。
奉公先は、他所(東京)へ行く者と農家の手伝いに行く者と半々ぐらいであった。一二歳くらいの女の子の仕事は子守りであった。娘は、住み込みの女中として働き、その家で躾を習ったという。
石戸宿のMさん(大正五年生)がいうには、口入れ屋を商売にする人は、中丸地区と石戸地区が昭和十八年に一緒になる前ころは、旧石戸小学校、現農協の辺りに一軒あり、必要な人数を受けて、あちこちから人を世話したが、たいがいは、近所の知り合いとかが、「どうだいあっちで欲しいといっているぞ」という話があったりしてまとまったものであったという。
本町のIさん(大正二年生)のばあいを述べると、奉公人の生活は、朝は夜明けと一緒に仕事が始まる。日が短くなると夜なべ仕事もあった。夕飯は八時に食えば早い方で、もっと遅かった。朝も昼も夜も同じで、オッケとオシンコで贅沢なものは食わなかった。魚がお膳に上がるようなときは珍しかった。酒が出ることはなかった。祭りの日は、奉公人も休みだった。若いころは、休みが楽しみで働く。休みというと普通は半日だった。半日仕事をして半日遊びという日もあった。
休みの日は、お正月は元日から三が日、十五日は藪入りで実家に帰ってくる。二月正月、三月節供、春の彼岸、五月節供、七月は原の天王様の祭りで休み、八月十五日はお盆で、朝から休ませる家もあるが、だいたい半日だったようである。秋の彼岸、十月十五日ころは、お日待ち(祭り)で休み、十一、十二月は、ほとんど休みなしであったという。大方の奉公人の休みは、盆の八月十五日に一晩、暮れの十二月二十五日から正月までのデカワリの間と正月十五、六日であった。
荒井地区のFさん(明治四十一年生)は、小学校を終わると奉公に出た。一年いくらで契約した。一二歳くらいの女の子は、子守りが仕事で、これも一年契約で奉公した。一軒の家に五、六年も奉公する人や、嫁や婿に行くまで奉公に出ている人もいた。長く奉公して良く働いた人には、奉公先で地所を分けてくれることもあったという。
石戸宿のMさん(大正五年生)がいうのには、奉公人でも奥州(現福島、宮城、岩手、青森)からやってきた人のことをオオシュッコといい、住み込みで奉公にきたという。くるときの年齢はまちまちで小さい者は子守りの仕事をし、一四、五歳の者は、農家の手伝いをした。土地の人と一緒になってシンショウ(身上)を持った者もいたという。

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