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第7章 人の一生

第2節 結婚

1 結婚の条件

縁 談
明治・大正時代・昭和に入っても大戦前後までは親同士で取り決めた縁組に従う時代だったから、農家は農家同士で縁組して、都会へ行くのはごく少数で、親のいうなりの結婚をした。嫁のやり取りは歩いて行ける程度のところ、二里周辺以内が多かった。最近一〇年以内に嫁に来てムラに住んでいる者は、県外からの人もいていろいろである。
高尾での嫁のやり取りは近所隣で行ない、遠くてもせいぜい二里四方ぐらいだった。川田谷(現桶川市)・馬室(現鴻巣市)辺りと行ったり来たりした。
常光別所の内同士は少なくて、馬室・栢間(現菖蒲町)・加納などの隣り村同士が多かった。三里以内が多い。吉見町などの水の出る所にはほとんど行ってないが、向うから来る人はいた。
適齢期というと、男の方は娘と多くて三つ違い、二つ違いか一つ違いぐらいで、二二歳から遅くても二五歳ぐらいであった。娘の方は早い人で一九、二〇、大方二二、三が多かった。東京ぐらいの親戚など遠くへ嫁に行く場合もあったが、近隣の人と一緒になる場合が多かった。
相手を選ぶときには、相性のいい人を選ぶ。また親をみて選べともいう。方角とか年回りのいいことも条件の一つだった。昔は血のつながりで縁組をしたもので、血と財産の程度が均衡していることが条件だった。あそこのところは肺の系統だから、とか言って嫌がった。お互いの血のつながりとか系統とかの調べが、なかなか難しくてできにくかった。嫁を貰うのは年ごろということもあるが、手間が欲しくてぜひということもあった。女としての一人前の仕事をみっちり仕込まれていないと嫁いでから苦労をした。だから娘が年ごろになれば、綿入れ・半てんから作業着まで縫ってしっけ糸を取らずに嫁入りまで取って置いた。その他、ウドンぶち、餅のこねどりから畑のサク切りまで全部習った。サク切りも、たとえば一番作はいい加減にして早く終え、二番作をきっかりしたりすると、親が見て全部やり直せと言った。浅くしか切ってなかったからである。

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