北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第7章 人の一生

第2節 結婚

2 婚礼

里帰り
御祝儀の次の日に近所まわりをした後、初めての里帰りをする。お姑さんが送って、仲人さんと女三人で行って、御馳走になってくる。赤飯か何かを手土産に持って行くものだった。この里帰りは「髪洗い」といって島田をほどくためだった。里でー晚泊って帰る。
荒井では、御祝儀の翌日とか翌々日、嫁は婿と姑に連れられて里帰りをする。オンナイチゲンという。実家では、嫁方の御祝儀を出した物と同じ物を用意して御馳走する。婿と姑は先に帰る。嫁は母に連れられてその日のうちに帰る。三月節供に姑がついて里帰りすることを、オンナイチゲンというと説く人もいる。
高尾では髪洗いの里帰りを、ヒダナオシと呼ぶ人がある。姑が嫁の実家に送って行く。丁寧な家では、婿と姑、兄弟と叔母(御祝儀に出られなかった二番客)総勢八人でイチゲンとして送っていく。髪洗いの里帰りには、嫁さんにお伴をつけた。一人で行っても構わないのだが、婿の従姉妹とかに頼んでお伴に行ってもらうものだった。嫁さんが転ばないように手を引くとか、着物が汚れそうになると裾を引くとかいって世話をしてやり、実家に着いたら、お伴が、確かに実家に届けましたからと言う。菓子箱に一円とか三円の祝儀袋を付けて土産に持って行った。嫁方からも、嫁の母親、兄弟、叔母さん(二番客として座った人)が送って来る。
常光別所では、御祝儀の次の日村の鎮守様へ、仲人ばあさんと、本家のおばさんと姑が付いてお参りに行き、その足で嫁は里帰りする。姑がついていく。仲人がつくこともある。赤飯をふかして重箱につめ土産とする。嫁は一泊する。姑は送って行くだけで帰る。翌日実家の母が、赤飯を重箱五つにつめて、送って来る。姑は、嫁の実家から持ってきた赤飯と手拭を、両隣りの家に持って行き、仲人の家には風呂敷を添えて持って行った。御祝儀の次の日の里帰りを「髪洗い」という人もあるが、実際の髪洗いの日は、二、三日後になり、島田を解きに実家に帰ってくる。妹だの姑だのがついて行ってこの日は泊らない。
北中丸では、式の後三日目か五日目、あるいは一週間くらいして里帰りをする。姑が送って、お土産には足袋・下駄を兄弟などに持って行く。赤飯と折箱を持って、一泊後母親が送ってくる。実家に里帰りして帰って来るときには、嫁は、本家・分家・隣りの家・婚家用に四つくらいの重箱に入れた、草餅・大福・マンジュウなどを持ってきた。重箱よりも入るミ(メ)シツギを使うこともあった。嫁に来て二年くらいたつと、嫁ぎ先と分家の二つくらい になる。「重箱と頭はさげっきり」といった。
嫁が実家に帰れる日は、正月十五日、三月節供と五月の節供、六月か七月の十五日、九日一日の八朔のショウガ節供、お盆と十二月十五日などである。実家に三日ほど泊ってくる。あとは百姓仕事が忙しかったから、里に行くことを許さなかった。里帰りする日でも、朝づくりをして働いた。実家の方の祭りの日は帰れた。
嫁に来た初めての年の正月には、若餅を持って実家に年始に帰る。餅は十四日に搗く。一升桝の形に切って、二枚重ねて、二組持って、十五日に行く。一生面倒みますとかいう意味があるのだろうという。嫁入りした初めての節供には、実家から雛が贈られてくる。子供には関係なく新しいものを買って、嫁さんに贈る。雛でなく「代品がいい」というと、鍬やマンノウなどをよこす。高尾・北中丸でやっていた。
七月十五日の祇園の祭りのときには、小麦の粉を一斗くらい嫁に持たせて里帰りをさせる。嫁が何泊かして帰って来るときには、その粉でマンジュウを作って持ってくる。
常光別所では、嫁さんの遊山日といって、年に六回里帰りができた。正月(旧二月、月遅れ)の十五日は、嫁さんだけ行く。菓子折くらい持って行った。この日は奉公人も休みである。家によっては一週間も泊っていいと言うが、三日も泊ると姑にツノが出た。三月節供には封筒に二円か三円入れて持っていって、小遣いを余計にもらってきた。種播きを終えると嫁は、五月五日の節供帰りに実家に行く。七月十五日の祇園にはウドン粉を持っていって、向うからマンジュウをこしらえてもってきた。九月一日はショウガ節供、八朔である。実家にショウガを持って行かせる。十二月十五日は霜月ユサン・鍋借り遊山といって、米を持って行って、実家で鍋を借りて御飯を炊いて食べた。この日はまた自分のものを持っていって、洗濯してくるものだといった。
荒井では、正月十五日、三月・五月・八月もしくは九月の節供、七月十五日、実家で祭りがあったとき(例えば二月二十五日の天神様の祭りのとき)、霜月の節供や盆暮に里帰りしたときは、三日間くらいは泊ってこられる。実家が忙しいときは手伝いに行った。実家からは、春は草餅、七月に小麦マンジュウ、霜月は赤飯が届く。嫁いで一年目は姑が送って行く。七日帰りにならなければいいといって、三、四日泊るのは普通である。「嫁婿十年、頭と重箱は下げっきり」という。里帰りをすると、嫁は里の親から小遣いや、赤飯・ボタモチ・小麦マンジュウなどを貰ってきた。嫁の節供(八朔)にはショウガを持って行って、箕と桝、あるいはザルを持って帰る。この日の里帰りには、赤飯の他に、ショウガと樽、斗かき棒、箕、ゴザ、籠の新しい物を買って嫁に持たせると話す人もある。
東間では、嫁が実家に帰れる日は、春の節供と五月の節供、六月十五日の夏ぶるまいと、九月一日の節供、それにお歳暮位だった。嫁にきて初めてのショウガ節供の時には、ミマス(箕桝)といって、箕とー合・五合・一升の桝と一斗桶も、実家が車で送り込む。兄弟への手土産を持たせた。
高尾のSさんの里帰りの話は次の通り。
一緒になった初めのうちは、花見が来ようが何があろうが他所には出なかったので、間にちょいちょい閑をこさえては、今日はだるいから実家の方へ遊びに行って来べえと、実家へ出かけた。節供と歳暮には大っぴらに里帰りが出来た。春ヒマチは氷川様の神楽の日で、実家の方が十五日、こっちが十八日だった。五月節供には土産はウドンか大概(たいがい)赤飯だった。嫁講なんかは無いからせつないので、よく実家に遊びに行った。お袋がこっそりと袖の下(へそくりの小遣い)をくれたものだった。私も何のかの二〇年くらい実家から物を持って来た。ザルを持って来る年もあった。蒸籠(せいろう)をもってくる人もあるし、鍋釜をもって来る人もあるし、その家の必要によって色々だった。Tさん(昭和二年生)が嫁入りしたころ、里帰りをすると、里の親から小遣い(三〇〇円程)や、赤飯、ボタモチ、小麦マンジュウなどを貰ってきた。
東間のSさん(大正元年生) の記憶に、旧の一月十四日、新しい嫁婿に、子供達が、ニワトコのカユタテ棒で男のものを型取って作り、嫁の尻をたたいたり、婿のなにに触ったりした。近所の子供がぞろぞろ、「おめでとうございます」と入って行くと、皆良く来た、じゃあ祝ともらえっていうことで、嫁さんが出て来た。Sさんの奥さんが嫁いで来たとき、昭和九年の正月十四日にはM家のおじいさんが、天狗の面を被って幣束を持って勢いよく駆け込んできて、「嫁ご出せっ」と言って、やはり「大のこんごう、小の金剛・・・おもちゃれ、おもちゃれ」とやった。お礼にはいくらか金を包んだという。
嫁の仕事は御祝儀の翌日から早起きして炊事をした。里帰りして帰って、嫁ぎ先のケエドウまで来ると、体が自然にシャキッとなった。三日目くらいから、二月だと藁仕事と針仕事が始まり、四月だと野良仕事が待っている。嫁は、お太鼓帯を締めて、サク切りをした。娘と嫁の違いは様子を見ただけで分かった。嫁に行くのは働きに行くようなものだった。田をうなった事もない嫁に対して「でけえなりして田ん中うなう事もできない」と文句を言ったりもした。昔は姑がいると、客が来ても嫁はお茶を出す程度で、顔を出さずいつも勝手にいた。勝手には小さなイスがあって、それを嫁の座と呼んだ。嫁は姑がいるうちは座敷の火鉢にもあたれなかった。畑に行くにも、どこへ行くにも、つま先で歩けなどといわれたりした。嫁は姑の心一つで捨てられ、奉公人以下の身分であった。子どもができても、姑は「憎い嫁から、かわいい孫ができた」などといったりした。昔の人は辛抱が強かった。家に帰るにも帰れないし、親に心配させるのは悪いし、川にでもはまって死んでしまおうかと辛い思いをしたものだった。たとえ近所に出るといっても、姑にどこそこへ行って来ますといって、自由が効かなかった。嫁にとっては、実家の親元へ里帰りするというのが嬉しかった。たとえ雪が降っていてもさっささっさと行った。高ん歯に雪がはさまっても駅までおつころがりそうになりながら、途中から足袋裸足で行った。実家から帰るときには、雨が降っていても、明日にするべかと、一日延ばしにした。昔は、嫁に行くと島田髪から丸髷にかえ、眉を落とし、お歯黒にした。自分の子どもが片付いたとき、娘の場合は嫁にやってから、又は、自分の両親の葬式をすませてから、早い人で三五から四〇歳くらいになるが、シンショウワタシとなる。収入の一切、村内のつきあい、交際のすべて、農協・銀行の通帳までを、跡継ぎとその嫁が受ける。

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