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第7章 人の一生

第3節 葬送

2 葬送

葬式組
葬式はハヤヅカイ以外にも、組合や地区の人々の協力を仰がねばならないことが多い。ムラ八分でも、残りの二分、火事と葬式だけは特別で、これだけは協力してやるというほどに葬儀の際の互助観念は強かった。また葬儀は慣習が重んじられるうえに、しかも忌みがかりの関係があるので、親族、近隣、村内とそのかかわり方がはっきりしている。隣組・組合は最も、身近な互助組織で、組内に葬式があると夫婦二人とも手伝いに出る。死者の出た家の近親者は実際には仕事に携わらないので、組合の人々にかかる比重が大きい。お勝手仕事は組合の女性たちがつとめ、葬式用具作りは男性がつとめる。このような葬式の折の互助組織も、新住民が急増したり、また葬儀屋が入ったり、火葬が普及したりして、時代と共に変化しつつある。

写真17 葬式組の仕事

四十九日の団子(石戸宿)

常光別所では、普通の家と物持ちとを組みあわせて、組合を作った。上に二組、中が二組、下が四組になっている。組合は六軒が基本であるが、八軒組合のところもあったし、タナガリ(店借り)組合の人が、五軒で一組になっている。この組は昔は別所の組合には数えなかった。死者がでると、親戚より早く隣り組に知らせる。近所の人が来て、神棚に半紙を張る。五人組の者があっちこっちの親戚などへ知らせる。葬式の手伝いに出るのは、組合の者だけで、ムラの人は、縁故関係のある人以外はかまわない。葬式当日の隣り組の仕事として、一軒から男女一組ずつ出る。男達は弔問を受付けたり、葬具を揃えたり、お返しを用意したりする。女達はお勝手仕事をする。料理として豆腐・ガンモドキを煮る。以前の帳面を出して、料理など大体何人分用意したらいいかと、葬家の主人とも相談して決める。竹串に団子七つずつ七本さしたものを二組つくり、四十九の団子といい、仏の前の仏壇の正面左右に飾る。男たちの作る葬具には、天蓋、松明、六地蔵のローソクなどがある。また役場への届けもする。元は、黒塗りの足のない会席膳を、格式のある家は揃えていた。ないところは隣り近所から借りて用立てた。お客や手伝いの人はお腹が減るから、お昼前にシノギを食う。墓から帰ると、本膳で飯を食べる。葬式の時の米の飯と豆腐汁は、昔は大変な御馳走だった。葬式は、祭壇を飾ることから、一切隣り組の者が全部やる。最近まで花輪もなかった。祭壇は、寺に道具があって、引幕から十三仏まで、寺から借りてやっていた。十三仏の掛け軸をかけて、その前にお棺に白布をかけて安置した。葬式の次の日に、仏具一式はお寺に返す。現在は葬儀屋が一切持って来る。昔は、葬式に行く人は葬式マンジュウを持っていったと聞くが、現在では香典を金で持っていく。浄めの酒を持っていく人もある。明治三十六年生まれのYさんが、二三歳ぐらいの時、六〇年前には、葬式マンジユウを作って持っていった。親が死ねばいくつ、お祖父さんの時はいくつ、子供が死ねばいくつと、マンジュウの数が決っていた。親の場合の数が一番多い。スマンジュウであった。今はそれを金に見積って持っていく。今は派手になって困る。昔は葬いがあると、二升・三升と米を持ち寄りにした。前の家とかごく懇意にしている家から貰う。七軒ぐらいから二斗ぐらいは集まった。米を貰った家には、そこで葬いが出ると、こちらからも持っていった。香典の他にクヤミ料を持って来た。クヤミ料は親戚の人がやるものだった。近所の人で米を持ってくる人は、名前と何升と書いて風呂敷で包んできた。これは、親戚の人がやるクヤミの代りだった。香典のお返しとしては、昔は、貰った葬式マンジュウを、一軒の家に六つとか七つとか持っていってやった。しだいに品物を配るようになった。塩アンの餅を搗いて、クヤミガエシとして配った。クヤミ料に応じて配る餅の数も違った。香典返しにはアンビン餅を配ったという人もある。マンジュウかツポヒラぐらいの引き物もつけたがたいした物はしなかった。アンビン餅は、一升で何個もできない大きな塩アンの餅である。葬いに来た親戚の人は、盛り切りで五つずつ四十九個の団子を貰って帰る。親戚の人が多いと、一斗からの団子をつくる。葬いには何でも四の半端をつけなくてはならない。
二ッ家では、向う三軒両隣りを隣り組という。組合とも呼んだ。冠婚葬祭について、上村・下村全部出る場合もあるが、多くは隣り組ですます。上尾の大石から婿入り養子があったとき、上・下全部出た。組合の仕事としては、母屋の建て替え、草屋根のふき替え、葬式、子供の生れた時、婚礼などの手伝いである。死人がでたら、組合の先立ってくれる人に知らせると、その人が組合に触れを出した。一軒で二人の手伝いが出る。今はGさんの組は一二件になっている。新しく家が増えたときは、お葬式の手伝いには、特に仲間入りを済ませて、正式の組合員になってからでないと出られない。葬式のときの組合の仕事といっても、今は、死亡届を出しにいく、お寺へ葬式の時間を知らせる。焼場の時間を打合わせるなどが主なものである。地区の中の幼稚園がある辺りは、新しい人が多いところであるが、お葬式がでたとき、どうやったら良いのかー人も分らなかった。区長さんの所へ聞きにゆこうというので、Gさんのせがれさんの所へ聞きにいった。最近は葬儀屋さんが、葬儀の指示をしてくれるようになった。また、互助会ができたし、農協でもやってくれるようになった。鴻巣には桶屋さんが多かったので、お棺は鴻巣にいって買ってきた。座棺から寝棺へと変ってきた。今では葬具屋さんで求める。祭壇も特別なものはなかったし、今ほど華やかではなかった。女達は接待と食事の仕事に当る。葬式のときは親類など人の出入りが多くなるし、仏様に縁のある人は打撃を受けているので、一切を組合の人がやる。買い出しの係が、棺や飾り物を揃え、香典返しの引き物も調える。上は上、下は下で葬式組をつくっていた。お葬式の漆塗りの本膳の膳椀などの道具類は、下の人は上に借りにきていた。四、五人で小さい籠をしょってくる。下の人は不便でしょうがないというので、Hさんのおじいさんが、道具類一切を作って、下の人に貸してやるようにした。おじいさんは、石戸村で一番の働き者で、一代で田畑を一〇町にした人である。本膳の道具はひじょうに大事にしていて、洗って返すときには、おばあちゃんが、仕上げにふき取るときから調べて納めた。お葬式の本膳は、黒い漆塗りでふた付きのもので、ご飯を盛る椀、お汁を入れる椀、煮豆などのツボ(壺皿)、ガンモドキや長芋、カンピョウの煮し オヒラ(御平)それにチョコがついて高足の膳、これで一式である。G家とかN家とか、上では三軒ほどが揃えて持っていた。昔は近所に葬式があると、「釜をおこさず」と言った。お葬式が終るまで、家の人は手伝いにいくし、その家の子供も、三度の飯を食べにいった。昔は、お米のご飯を食べることがご馳走であったし、また食べることが死人の供養だった。子供が食べにいかないと、ご馳走をわざわざ届けてくれた。手伝いに来た人が一五人程、家族と親類を入れて一五人程の食事になるので、三升炊き、五升炊きの大釜で飯を炊いた。今では一升炊きの釜など持っている家がごく少ないので、ご飯を炊くにも大変である。亡くなったというと、少なくとも上クルワ(曲輪)だけは、死人の顔を知っているから、納棺の前に顔を見て最後のお別れをしてくれといって、「言い継ぎ」で隣り隣りに次々と伝えて、「クチミマイ」にいった。クチミマイには香典も何もいらない。それだけですまない人は、翌日香典を持っていく。

写真18 葬式組の仕事

準備(石戸宿)

下石戸では、人が亡くなると隣組へ伝達する。二人一組で、亡くなった人の子供・親戚へ連絡にいく役を、ツゲト(告げ人)という。医者から死亡診断書をもらう。死亡届を役所へ提出する。役所から埋葬許可書をもらう。お寺へ頼む。お寺から葬式の日程を聞いてくるなど、近所の人がやる、ツゲトとなる人以外の近所の人は、葬具を用意した。葬具代はすべて施主が出す。鴻巣の店へ頼むと、棺、施主花、塔婆、位牌、帷子がついてくる。近所の人で餅屋へ走る人もいる。小判型のスマンジュウを頼む。これは香典返しに配るのである。最近火葬になったが、組合の人は二人でロクドウ役もやる。花や松明を持ち墓場までいく。女は台所仕事をする。埋葬後、組合の人は、男も女もお念仏をあげ、鉦などをたたく。墓場掃除にもいく。弔いの日に、米の粉を水でこねて「四十九の団子」をつくる。直径一〇センチぐらいの大きな団子を一本の串に七個ずつ刺して、祭壇の棺の両脇へ立てて置く。串の上は、色紙の扇形にしたもので飾る。十三仏、四十九の餅を葬式最中に搗くという家もある。料理は野菜の煮っころがしに、天プラなどの精進料理で、昔から必ず奈良漬が二切れついた。
宮内での班組のつきあいとしては、引っ越したときにあいさつする、結婚式に参列する、病気見舞いをする、出産祝いを届ける、回覧を回す、葬式の手伝いに出るなどがある。弔いが出ると、ジンガ地区の者は皆出る。五軒組合の葬式の役割は、医者から診断書を取ること、役場に書類を提出すること、お寺に通知することなどの仕事である。その前の時代は家に応じた葬式であった。昔、寝棺は金持ちの家でしか使わなかった。死亡通知に行くことを「告げに行く」という。告げにいった人には、家によってだが、昔は三円から五円を清めと称して包んだ。組内の家は、一軒から夫婦二人が、二、三日手伝いに出た。地元にいる分家、親戚、本家も二人ずつ出した。昔は受け付けをしたり、葬式道具を作ったり、竹などを立てたりした。葬式道具は、今は葬儀屋に頼む。女は料理作りや、お返し物の準備をする。お通夜の晩に、男女で、カネ(鉦)をはたいて十三仏のお念仏をあげる。昭和六十年の八月現在もやっている。今は搗かないが、昔は、十三仏と四十九の餅を搗いた。カラミ餅を搗いて組合に配った。手伝いに来た人にも食べてもらった。昔はトムライというと、三日はヒマをかいたものだった。昭和七年に八一歳で亡くなった人の葬式のときは、新田中が寄って、先ず餅を搗いて食ってから仕事を始めたという。昭和二十三年に七一歳で死んだ人の葬式のときも、餅を搗いた。
北中丸では、葬式のことを、トムライとかジャンボンという。トムライは本家が中心になってやり、組合は手伝いに出る。友引にはトムライはしない。組合の人は竹を半分ぐらいまで縦に細かくさき、さいた竹を外側にそらして紙を張り、張った端々に飾りをつけた。テンガイ(天蓋)を作る。棺にも棺と同じ大きさにテンガイを作り、四隅に竹で渦巻きの形を作り、僧に書いてもらった紙を下げるシシガシラを作る。木でV字形を作り、そこに紙で目を張り、紙をよじって上の方に縦に切って角に見立てたものを三本つけ、竹で胴体を作って、半紙にウロコを書いて張る。竹を二節に切った花立てを一対作る。座敷に棺を納め、棺に本膳と四十九個の団子を飾る。本膳には、御飯、モドキ、汁、ヒジキ、豆、昆布巻きを、膳の縦目を直角にして、逆さ膳にして供える。四十九の団子は、一本の串に七個の団子を刺し、この串七本を藁の芯の側面に立て、それを箱に立てる。これを棺の両側に一対ずつ飾る。組合の人はトモノワラジも作る。草鞋の前の方を編み、後ろは編みかけのようにする。香典はお金である。近い親類は、塩アンの念仏餅を搗いて持ってくる。葬式に来た人には、念仏餅を六個ずつやる。その日のうちに香典返しにマンジュウを出す。香典返しには、砂糖とか酒とか干ウドンをつける。位牌は、家に置くものと野位牌といって墓に置くものと二つ作る。位牌には袋をかぶせる。長生きした人のイハイブクロを貰うと、後生がいいという。それでいくつも作り、参列者は貰って帰る。早死にした人の位牌袋は、頼んで貰ってもらう。そうしないとかわいそうだという。
荒井では、祝儀、不祝儀の手伝いを、組合がする。久保の葬式のときの手伝いは、久保地区の中から各家一人、葬式の出た家の組合からは各家二人出る。組合は五軒で一組。葬式のほか、子供ができたとか、一週間以上入院した、火事などの際には組合並びに近所の家が、祝いや見舞いをする。なお、トムライのアナホリは、久保で二人の順ぐりになっている。生活改善連動のため、冠婚葬祭のときのつきあいが大分縮少され、ごく近所を除いてつきあいを行わないということになった。トムライのとき、イッケは線香を立てにいったものだが、今は本当に少なくなって、近所の人三分の一ぐらいになっている。昔は結婚式なども家によってイッケを呼んだりしていたようだが、トムライにもましてつきあいが少なくなっている。組合の人は、亡くなった日に一軒で二人ずつ手伝いに来るが、家によっては、親類の多い少ないによって手間の人数が違うし、家から出た人は手伝うし、二人頼むとかかりもかかるから、場合によっては、一人で来てくれといわれるときもある。そのとき、手伝いは一人ずつ出る。葬式の準備として、役場やお寺や医者にいって証明書・諸届けをやる。豆腐屋に行ってガンモドキを頼む。沢庵漬や奈良漬、カラシ味噌をシソの葉で包んだものを用意する。しょうが、きゅうりの酢の物、冬は大根の酢の物を作る。四十九の団子を作るなど忙しい。葬式に来た人に配る引き物として、戦争前までは木綿の布団皮をよく使ったので、どこの家でもいく枚かは貰ってもっていた。今はタオルケットとかシーツとかを引き物にする。弔いに出る人は皆、朝食を食べずに集る。近所の人が寄って、飯を炊き豆腐の味噌汁で、弔いに来た人に朝御飯代りに食べてもらう。葬式に来た身内の人達は、お勝手を手伝っている人に浄めを包む。これは今でもやっている。手伝いの人達は後でそれを分ける。葬式のときの餅は、親戚がウスノキにして持ってくる。ウスノキというのは、一臼の餅を一つの盆にのせること。二、三割の家では祭壇を飾らないのが普通であった。祭壇を飾る場合、正面に観音様の十三仏の画像をかける。親戚から花が贈られ、組合の人が団子を一升の重箱に山盛りにする。団子は四升四合の米で作る。また、藁を芯にして白い紙を張り、七本ずつクシ団子にしたもの一対を飾る。これも組合の人が作る。終戦後は、やらなくなった。輦台(れんだい)は、金持ちが使用したのを後で借用して使ったものだそうで、この輦台の上に仏をのせて、兄弟、親戚の人がかついで墓地に運んだ。これも終戦後はなくなってしまった。米の粉を、二升四合、三升四合など「四」のつくマス目にして、丸い団子を作り、仏壇前に供える。葬式終了後、六個から八個ずつを帰る人に持っていってもらう。葬式のときに使った米の粉は残しておき、ひと七日から七日ごとに団子を作るので、それに混ぜてやる。大きな団子を一串に七個ずつ、七本作った四十九の団子は、濃い親類が一本ずつ貰っていく。逆の説明をする人もある。親戚の少ない人は二升四合とか、多い人は二升八合とか決った通りの量の米の粉で、子供の拳ぐらいの団子を九十八個作る。一本の竹串に七個ずつ通して七本、台に四角に盛り付け、四周を半紙で囲む。竹を削ってとがらせて六本のローソクを立てる。四十九の団子を三宝にのせて二組作り、祭壇の両方に飾った。これは葬式が終ってから組の人に一本ずつ持ち帰ってもらう。その他に米の粉の小さい団子をお重に二つ作って両方に飾った。これは引き出物と一緒に、八粒ぐらいずつ半紙にくるんで親戚の人に持ち帰ってもらう。団子は焼いて醬油を付けて食べたりした。
高尾では、組合は六・七軒で一つのまとまりになっていた。弔いを出す家から、弔いの手伝いには二人来てくれ、一人来てくれと触れが出る。城中組は東と西に分れている。たとえば、葬式が東であるときは東の人は夫婦で手伝いにでた。西からは一人が手伝いにきた。今度手伝いの範囲が変って、隣の組には線香をあげにゆくだけとなった。当日には組合の人が朝食を食べないで集まる。組合の人が朝食を作り、その家の人に食べさせたり、自分らも食べたりした。葬式のときの組合の仕事はほとんど食べ物仕事になる。朝・昼・タとご馳走になって解散する。Sさんのご主人が亡くなった時、ご主人の兄弟とSさんの兄弟と実家の方へ知らせて、病院から帰ると、隣組の人が寄っていた。葬式の事は組合の方が全部やってくれる。男は、寺や親戚へ通知し、受付をし、酒や食糧の手配をした。竹箸を削り、葬式道具を作る。女は料理を作り、夜あと片付けが終ってから、お念仏をあげた。一〇年ぐらい前までは花輪はお寺に納めた。納めるには一本三〇〇円ほど添えた。今は葬儀屋がひきとってくれる。葬式のときには左膳にする。献立は決っていて、汁の実は豆腐、ツボはマンジュウあるいはヒジキ、豆、ヒラはガンモドキ、チョコは大豆の煮たものなどであった。この上に小皿を乗せ、奈良漬を二切れぐらい並べた。死人が出たらすぐに粉を挽き、残しておいて四十九日まで少しずつ使う。串団子といって、大きな団子七つずつを七本の串に刺して、四十九の団子を作る。小さな団子は桝に盛る。あるいは重箱におてんこ盛りにして仏様に供え、お昼にお墓から帰って座に着いたときにそれを下げて、六個ずつ紙に包んで、組合の一軒一軒にあげる。親戚にもそうしてやる。

図3 左膳

東間の場合葬式には、男が幾人、女が幾人必要と連絡がある。葬式を出す家の都合によって手伝いの人数が違ってくる。男は寺や親戚へ通知をし、受付をやる。女は料理作り。一五年前までは、男女一緒に組合、親戚一同でお念仏をあげた。今は東利屋さんが、テープでお念仏を流す。昔の深井は、上・中・下・丸子に分れていた。葬式は中組が一つ組でやった。組合の男たちは、サタという寺や親戚への通知とか、葬式道具作りとか、受付をやる。その他棺を納めたあとの土を盛ったところに、あとで四方に竹を置いて、その上に膳を置く仕事がある。女は勝手一切のことをやった。今は仕出しに頼むが、昔は精進料理でなくてはだめだった。

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