北本市史 民俗編 民俗編一覧
第7章 人の一生
第3節 葬送
2 葬送
野辺送り読経が始まると、この読経中に焼香をする。香炉に抹香が入っていて、それを近親者から回す。家の中で、僧侶が棺の前に立ち、桑の木に紙を巻いたのを二本持って、引導を渡す。棺の蓋は、初め身内の人が石あるいは錠の峰で打ち、あとは金槌で打ちつける。出棺の前に、僧侶がお経をあげている内に、座敷に座った人たちに飯を回し、一本箸で食べる真似をする所がある。近親者と死者とが永遠の別れを告げる食べ物である。
荒井では、出棺の前、僧侶が経を読んでいる最中に、汁をかけた飯が参列者に回り、これを一人一人が一本箸で食ベる真似をする。だから、普段の時に汁かけ飯をすると、死んだときにする汁かけ飯をやるなと叱られた。出棺のときには、親戚の代表があいさつする。棺はオモテ(縁側)から出すもので、玄関からは出さない。お客の履き物もオモテにまわして、客は表から出る。だから、普段の時に縁側から人が上ると、葬式じゃないからととどめる。棺が縁側から出ると、掃き出す真似をする。また庭には簡単な仮小屋を作り、そこを左回りに三度回ってから、門口にたいた松明をくぐって、野辺に出る。これらのことは、いずれも死者が帰ってくるのを防ぐための呪術であろう。
北中丸では、家の中で僧侶が拝んでいる時 仏に供えてあったご飯を、一本箸で食べる真似をして回した。
出棺の時、庭に四本の竹でヘヤを作り、竹の上に幕を張る。この周りを左回りに三回まわる。そして、棺をヘヤの下に置いて、寺の御前(僧侶)が道しるべを読む。ヘヤの周りを回るときに、御前が、ビンジャン(鏡鉢)をならす。棺が縁側から出ると、ナゲゼニといって、親戚の人が袂に銭を入れておいて、これをまいた。庭ドムライの棺が回っている間に、トモライセンといって昔は一銭銅貨を撒いた。この葬い銭を拾うと良いという。庭には六道の辻を照らすといって、竹にロウソクを立てたのを奇数の数立てる。親戚の人はトモノワラジを履いて回り、回り終ると墓にもって行って捨てる。
常光別所では、葬列が門を出る前に庭ドムライをした。庭に竹を四本立てて、白黒の幕紙をたらす。あるいはミナガワを屋根にして周囲を布で巻く。その周りを棺が回る。庭ドムライは、三回左回り、坊さんは正面でお経をあげている。竹につっ刺して赤鬼と青鬼を色紙で巻く。丸っこい天蓋も付けた。庭ドムライには、篠竹で作ったシシッコ五本とヨツモト四本も立てて、回りながら昔はナゲセンを投げた。お供養といって、投げ銭を子供にくれた。野蛮だからといって、後では銭を配るようになった。近所の者とか親戚の人とか手伝いに来た人に、五〇〇円とかいくらかを、投げ銭といって配ってもらう。
深井では、庭ドムライで回っているとき、親類の人が、お金を投げる。そしてお金を投げながら墓へ向かう。だからお金を拾いにトムライを見にくる人がいた。
下石戸上では、庭ドムライは財産家ぐらいしかやらなかった。庭に一〇尺もある四本の竹を立て、周りに赤い布を巻き、屋根にはむしろを張った。その周りを坊さんを先頭にして、左回りに三回まわる。回りながら、先頭の坊さんはお経を、二番目の坊さんは「ジャジャンポンポン、ジャジャンポンポン」と鉦(かね)を打ち鳴らす。回り終わったら、棺を竹の内側に置き、坊さんが引導を渡す。回る順序は、坊さんー一提燈ーー位牌持ち(相続人)ーーお膳持ち(相続人の妻)ーー棺(近親者が持つ)ーー親戚ーー友人ーー近所の人となっていた。
高尾では、昭和二十七、八年頃までは、坊さんを三人ぐらい呼んで、庭に組合の男の人逹がヘヤ作りをして、庭ドムライをしていた。竹の間を棺をくぐらし、三回半回す。余りにも金がかかりすぎるので、今ではほとんどやらない。
荒井では、立派なトムライで、坊さんも最低でも二、三人ぐらいつくときには、ニワドムライをやった。庭ドムライは盛大な葬式で、院号居士のついた家か大尽でなくてはやらない。お膳立てに金がかかり過ぎるので、どの家でもというわけにはいかない。それでも葬式は丁寧にやりたいというので、無理して行う家は少なくなかった。大正末・昭和初期までは行われていて、昭和十三年までやっていたようであるが、今はほとんどない。庭に長い丸竹(笹は用いない)を四本立て、赤い布四尺を張り、その上にハンペラ(薄いコモ)を乗せて八畳間ぐらいのヘヤを作る。赤い布は火相といって火を表すそうである。四本の竹は下が広くなっていて、赤い布は無地で普通の一反(二丈八尺)のものを使う。ニワドムライは近所の組合の人がする。だいたい年寄りの役目である。坊さんが拝んでいる間、一番下のジザイボウズが先頭で鉦をはたいて回る。追い出し鉦をカンカンとならし、ジンジャラン、ジャランポンと鉦をならして、庭ドムライは始められる。左回りに三回程そのヘヤの周囲を坊さんを先頭に回り始め、まん中をリヤカーにのせた棺をくぐらせて墓地に向かう。一回半まわって墓地へ案内していくという人もある。この時、施主や身内の者も後に続き、親類の者が小銭を撒いていく。子供達や見送りにきた人たちがその金を拾う。庭回りを終えた一行は、ケイドから野辺の送りに出る。野辺送りの行列の順序は、ほぼ次のようなものである。①タイマツもしくは高張提燈②花(生花・造花)③膳 ④位牌 ⑤棺 ⑥シシガシラ、天蓋 ⑦親戚
北中丸では、僧侶、ジャンジャン、高張提燈二つ、生花、造花、膳、位牌、棺、親戚の順序で墓まで行く。位牌には、位牌カクシをかぶせ、これを早く取ってもらうと縁起が良いという。棺は、息子か近い親戚が担ぎ、担がない者は棺の横に付いて行く。四人で輿にのせて担いだが、今はリヤカーで運ぶ。子供が担ぐものだといい、だから子供を四人は持つものだという。高張提燈と花は組合の人、膳は施主の妻、位牌は施主が持つ。ハナモチをする人は、墓まで花を持っていくと、首から下げていたサラシを貰う。棺が家を出るときに、庭の出口にロウソクを二本立てる。そして本通りを通って墓へ行く。葬列が墓に行くときに銭を撒く。葬列は、近道や横道を通ってはいけないという。ゴクラクミチといわれる道を通っていき、帰りにもその道をくる。
高尾では、高張り提燈、花輪、生花、位牌、膳、棺、見送りの人々の順となる。提燈、花輪、生花は隣組の人、位牌は長男(跡継)、膳はあとつぎの奥さん、棺は親戚の人が担ぐ。トコホリの人が、出棺のときに松明を門口の両端でたく。お棺はその間を通って行く。墓までは見送りにいけない人は、家の門で見送りをした。これをカドオクリという。また、座敷に上ってご馳走になったりせずに、お焼香ですますことも、カドオクリという。墓地までは行っても行かなくもよい。出棺と同時に氷川神社の神官が忌中払いをする。車を使うようになってからは次の順序もみられる。①班の人が持つタイマツ二本②棺(霊きゅう車)③セシバナ(施主花)、金花、銀花④位牌⑤膳⑥親戚の人⑦一般参列者。藁を束ねたタイマツを班の人二人が一つずつ持って先頭を歩く、これは昔からである。施主花を持つのも班の人であった。
写真19 出棺のときのタイマツ(石戸宿)
石戸宿では 庭トムライが終って墓地に向かうとき、門の手前で松明を二本立て、その間を通っていく。
二ッ家では、四人で棺を担いだ。地区に昔は輦台があって、稲荷様の所の公会堂に置いていた。せがれなり娘のつれあいなりが担いた。それで足りない場合はトコバンが、それでも足りないと組合の人がやった。
野辺送りのとき、女の人は白ムク(無垢)、ソデッカブリ(袖被り)にした(下石戸上)。昔の葬式では、坊さんが拝んでいる間は、肉親は白い喪服を着て座っていた。葬式の時には着がえて違うものを着ていた。白い着物を着る人は、薄くて白い布でできたワタボウシをかぶっていた(荒井)。