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第8章 信仰

第1節 神社

1 市内の神社

荒 井
荒井の神社は、『風土記稿』によると鎮守の牛頭天王社と浅間社で、牛頭天王社には「双徳寺持」、浅間社には「修験正明院の持」とあるだけである。
北袋の神社も鎮守の神明宮と熊野社について、共に「地蔵院持」とあるだけである。
これらの神社は『郡村誌』にもそのまま見えている。しかし、『郡村誌』の頃には北袋は荒井に合併されており、神社も荒井村の項に一括されている。『郡村誌』における熊野社と神明社が『風土記稿』における北袋の熊野社と神明宮であることは、『郡村誌』のこの二社の条に「村の北方飛地にあり」と記されていることから分かる。『郡村誌』には、他に道祖社・稲荷社・橿城社が新たに現われている。  
これらの神社は、みな大正六年村社須賀社に合祀されている。ただ『明細帳』には、欄外に「昭和二十二年六月十八日、合祀未済のため独立を認め抹消す」として、合祀された神社の中で、北袋の熊野社とその境内社稲荷社が消されている。しかし、北袋神社境内にある『社殿新築記念の碑』には「(前略)合神明社橿城社熊野社之三社、称北袋(中略)大正六年十一月廿五日施行遷宮式(後略)」とあることから見れば、熊野社だけではなく根城社・神明社も抹消しておくべきものと考えられる。ちなみに北袋神社という呼称も、大正六年十一月以降のものということになる。
村社須賀社について『明細帳』には、「創立ハ天正年間ナリト棟札アリシカ、去ル明治十一年二月火災ニ罹り焼失ス、同年中今ノ如ク仮社ヲ建テ鎮祭ス」とあり、境内神社として「道祖社、社殿石祠」とある。
現在荒井で祀っている神社は、この旧村社須賀神社と北袋神社、そして須賀神社に合祀されていたのを昭和初めころに元に戻した東原の浅間社、及び個人の氏神であったのを、南で祀るようになった八幡社と稲荷社である。
さて、須賀神社の祭神は素盞嗚尊で、地域の人は天王様または荒井の天王様と呼んでいる。
境内には三峰社と道祖神があるが、道祖神は石造であり、『郡村誌』に記されていた道祖社であろう。銘文には「双徳寺二一世一如徳門化、文化七年六月吉日」とある。道祖神はドウロクジン様と呼ばれ、足の神様という。信心すると、旅に出ても足が悪くならないといい、旅から無事帰って来ると草鞋を作ってお礼参りをするため、昔は草鞋で一杯だった。特に祭りはしていない。

図5 境内略図 須賀社(荒井)

写真8 道祖神

(荒井 須賀神社)

三峰社は、橿城神社の境内社としての三峰神社以外には見当たらないが、あるいは新たな三峰社が、何らかの経緯で境内社となったのかよく分からない。
氏子範囲は荒井で、南・馬埸・荒久保・風原・上手・東原の六組から総代が一名ずつ出て計六名おり、その中から総代長が選ばれる。この総代はまた、荒井の観音堂(味噌観音)の総代ともなる。
総代の選出は各組で異なっており、上手の埸合を見てみると、二年交代で、三月十五日ころ組の総会があり、その時に決めておいて、八月十七日の味噌観音の祭の時に交代する。
他には組の各班より一名ずつの年番がいる。南九名・馬場二名・荒久保二名・風原二名・上手七名・東原八名で、二月三日の節分祭にあたって、各班の年番がお札を勧誘し、総代のところで取りまとめる。
また、七月の祇園祭の時には、灯籠番という組単位で順番になっている役がある。
年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦祭、二月三日・節分祭、四月十五日(前後の日曜日)・春祈禱、六月十四日・五月灯籠、七月十四・十五日・祇園祭、十二月冬至・冬至祭(星祭)
元旦祭(一月一日) 幟を立て、神主が来て御祈禱する。新年会である。
節分祭(二月三日) 神主が来て御祈禱をした後、夜八時ころから豆撒きをする。お札は大年男・年男・普通の三種類となっており、各班の年番が勧誘する。大年男と年男には、お札の他に桝が付き、桝にはお供えと豆・魚・銀杏などが入っている。
豆撒きでは、年男が三〇人位で豆・みかんを撒いて、氏子の人達が多勢来てそれを拾う。夜八時ころから始まり、一時間位で終わる。
春祈禱(四月十五日前後の日曜日) 神主に御祈禱してもらった後、三峰神社(境内社三峰社の本社)へ御眷属の交代に、総代六人で行って来る。
五月灯籠(六月十四日夜) 祇園祭のはしりで、悪魔除け・無病息災を祈って神主に御祈禱してもらう。総代だけが出席し、一杯飲んで終わる。
祇園祭(七月十四・十五日) 十四日朝八時に「山かり」といって清掃をする。前年の灯籠番が神輿の飾り付け、その年の灯籠番が幟立て・花作りをし、それ以外の組の人が「山かり」をする。
午後になると、神社から観音堂まで持って来ておいた山車を囃子連と子ども会の子ども達が曳いて、五時ころまで荒井を一周する。
午後六時になると、神事があって、飾り付けておいた神輿を倉庫から出し、神社拝殿に入れる。神輿は昭和五十九年からは境内に倉庫ができたので、そこに入れるようになった。それ以前の観音堂横のクラブに置いてあったころは、夜七時ころ提灯をつけ、飾り付けをした神輿を神社まで運んでいった。
夜八時から一〇時までは、婦人連の踊りが行われる。
その年の灯籠番は、拝殿の中に入れた神輿を一晩中交代で番をする。
十五日は、神輿が獅子と一緒に順路に従って各神酒所で休みながら荒井を回る。順路は須賀神社から北袋の北袋神社、上手、東原の浅間社、南の八幡社、久保、風原、馬場と回り、観音堂に来て宮入りとなる。昔は、獅子が一軒々々悪魔払いをやったが、今は神酒所で舞うだけである。やがて観音堂に来ると、そこからは山送りということで、灯籠番が引き渡しを受けて、担いで神社へ入れる。神社では神主が待っていて、御神体を出し、本殿に納めて終了となる。その後、社務所で「引き上げオミキ」というのをして、一杯飲んで解散する。
冬至祭(星祭・十二月冬至) 神社に総代だけ集まって、神主に御祈禱してもらう。特別なことは何もしない。昭和の初めころには、夜に先達が火渡りをした。薪を積んで火をつけ、おきになったところに塩をふり、先達を先頭に皆裸足で渡った。火渡りをすると無病息災で風邪をひかないといった。
天王様の氏子は、胡瓜を作ると厄病にかかるといって、胡瓜を作らない。胡瓜を輪切りにすると、天王様の紋と同じ形になるので、胡瓜を切ることは天王様の紋を切ることになるといって嫌う。

図6 境内略図 北袋神社(荒井)

北袋神社の祭神は、天照大御神・面足命・惶根命で、地域の人は神社と呼んでいる。
境内には稲荷社があるが、この社を祀る稲荷講が信仰する者二五名前後で行われている。鴻巣の原馬室からも信仰する者が来ている。常宿があり、三月初午の前の晩(己の晩)に神主に来てもらい、七時ごろから講員が集まって飲食する。当番が四名いて、講員から米三合とお金を集め、飲食の準備をする。来年の当番は、皆が飲食を始めたころ、紙緩(こより)に印をつけ、既に当番をやった人を除いて引いてもらい決める。翌日の初午には、前もって主だった者が神社の稲荷社を掃除しておいて、神主に来て拝んでもらう。
神社の氏子範囲は北袋で、総代は三班に分かれている各班より一名ずつの三名で、任期は三年、一年ずつ一名あて交代するようになっており、三年目になると総代長となりやめていく。今は皆が順番に総代をやるようになったが、もとは総代長は古い人がやった。
総代の他に班単位で年番がある。年番の中から箱もち(会計)が二人選ばれる。神社では幟を立てることはないので、年番の仕事は神饌(しんせん)を揃えたりすることである。
年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦祭 四月二十五日・春祭 七月二十五日・灯籠祭 十一月二十五日・秋祭
祭りの内容はすべて同じで、各戸にふれが回り、皆に集まってもらい、神主に御祈禱してもらった後、御神酒を頂いて帰るというものである。
他に七月十五日には、荒井の天王様(須賀神社)の神輿がこちらまで来る。これは、北袋は地域として荒井に入っているが、須賀神社の氏子というのではなく、準氏子ということになっていて、天王様の祭の時に三名の総代が灯明料を持って行くので、その返礼として来るのである。
神輿が北袋に入ると、北袋の若い衆に渡され、神社まで持って来る。神社では、北袋囃子連が迎え太鼓を叩いて神輿を迎える。拝みをして、御札を戸数だけと神社とに置いてもらう。一緒について来た荒井の若い衆が万作などをやり、荒井の方の太鼓とこちらの囃子と交流する。

写真9 浅間神社(荒井)

浅間社の祭神は木花開耶姫命で、地域の人は竹の子浅間様と呼んでいる。その名の由来は『神社』によると、一五〇年前土盛りをした浅間社の中段に真竹が生えたことからそう呼ぶようになったという。
大正六年村社須賀社へ合祀されたが、東原で悪いことが続いたため、昭和二十六年元に戻し祀るようになった。
氏子範囲は東原で、世話人が一名いて二年交代となっており、他に八班から各一名ずつの神事係と二班ずつで行う幟立ての当番とがある。世話人の交代は、夏の祭が終わってから適当な人を選び、四月の地区の総会で決められる。神事係は一年交代で、家並順となっており、行事の準備が仕事である。幟立ての当番は、一回ずつの交代である。幟を立てるのは一月一日の元旦祭の時と六月三十日〜七月一日の夏祭りの時である。
一月一日の元旦祭には、神主が来て御祈禱してくれる。
六月三十日夜と七月一日が夏祭りで、初山といってこの一年に生まれた赤ん坊を連れてお参りする。その時赤ん坊の額にハンコを押してもらい、お札と団扇をもらって来る。もとは近所・親戚にその団扇を二本ずつ配ったが、今はそうしたこともなく、自分の家の分だけ頂いて帰る。

写真10 八幡社(荒井)

八幡社の祭神は誉田別命で、地域の人は八幡様あるいは南の八幡樣と呼んでいる。
この八幡様は『神社』によると、かつて個人所有の氏神であった。大正末にその人が桶川の方へ移転した時、八幡社を南地区へ譲り渡していった。それ以後、南でお祀りしている。境内の記念碑には、この人が昭和二十八年に八幡社敷地として、居住していた土地三七坪を奉納したことが記されている。
氏子範囲は南で、区長を中心に須賀神社と兼務の年番が九名いる。
四月十五日と九月十五日が祭で、四月十五日の春祈禱は、区長と年番とが集まり、神主に来てもらって御祈禱してもらうだけである。
九月十五日の秋祭は、この日が敬老の日でもあるため、区長と年番とで午前中準備をして七〇歳以上のお年寄りを呼んで御馳走し、これが昼までかかる。午後一時から神事があり、その時には荒井の総代六人が全員出席する。夜になると、囃子連・婦人部による踊りがある。

写真11 稲荷社(荒井)

稲荷社の祭神は倉稲魂命で、地域の人は社殿・鳥居が黒いことから黒稲荷と呼んでいる。
この稲荷社も、もとは個人の氏神であったが、その人が他出し、その頃南で火災が多く続き、稲荷様がたたっているということになり、南で祀り始めたという。明治の終わりか大正の初めころのことという。
氏子範囲は南で、区長と当番四人が中心となって祭を行う。
祭は、三月初午の前の晚、公会堂に皆が集まって、掛軸をかけ、神主に御祈禱してもらう。三年前までは、この時夕飯を食べたが、今は食べず、集まるのも昔から稲荷様を信仰する家四〇戸位である。またこの時に、クジで来年の当番を四人決める。クジは当たると抜けていき、皆やり終わると再び全員でクジを引いてから始める。
翌日の初午には、当番が交代で稲荷社に詰め、午前八時ころから午後四時ころまで、お参りに来る人にお茶の接待をする。

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