北本市史 民俗編 民俗編一覧

全般 >> 北本市史 >> 民俗編 >> 民俗編一覧

第8章 信仰

第2節 堂庵

石戸宿の堂庵について
『風土記稿』には三宇載せられており、念仏堂には「三尊の弥陀を安ず」、薬師堂には「村持」とあるだけであるが、阿弥陀堂には「小名堀ノ内にあり、縁起の略伝源範頼故ありて当国石戸郷に配流せられ、土俗これを石戸殿と称せり、然るに其息女龟御前病に罹りて、正治元年七月十二日卒しければ、黄葉妙秋大姉と謚し、迫福のために法誉和尚を請して一宇を創建し、西龟山無量院東向寺と呼ぶ、則此堂なりと、されど此縁起は寛政年中好古者のしるせしものにて、もとより拠とすべきことなし、弥陀は坐像六寸、行基の作なり」とある。
『郡村誌』になると、新たに薬師堂が一宇現われ、念仏堂に代わって阿弥陀堂が現われてくるが、この阿弥陀堂は「放光寺境内にあり」とあって、あるいは『風土記稿』の念仏堂と同じものかとも思われる。『風土記稿』の阿弥陀堂は『郡村誌』では東光寺となっており、「元阿弥陀堂と称へしか何の頃よりか今の寺号に改む」とある。『風上記稿』の阿弥陀堂の条には「東向寺」とあることから、「東光寺」と字だけ違えて用いるようになったものと思われる。

写真24 薬師堂(石戸宿)

『郡村誌』にある放光寺境内の阿弥陀堂は本宿の共同墓地となっており、今は子どもらが悪さをするので釘づけにしてしまっている。藁葺きなのでそろそろ何とかしなければ、という話も出ているという。行事などは何もない。放光寺も集会所横の小さな建物で、八月十五日の寺施餓鬼に泉福寺から僧侶が来るだけで、四年交代になっている二人の寺世話人により管理されている。
横田の薬師堂は『郡村誌』に載っているニ宇の薬師堂のうちの「村の北にあり」とある方の薬師堂と思われる。
このお堂は、ヤクシサマあるいは、集会所を兼ねていることからシュウカイジョとも呼ばれ、横田イッケ(真言宗・常勝寺檀家)と新井イッケ(天台宗・泉福寺檀家)とで造ったものといわれている。
堂内に安置されている薬師如来像と釈迦如来像は、十年程前から留守居の人がいなくなったため、カラカネでできている釈迦如来像の方は紛失する心配があることから、個人宅で預かるようになった。木像の薬師如来像の底には「宝暦三年」の銘が入っている。
昭和三十七年十一月に建てられた「薬師堂改修記念碑」には、「薬師堂は江戸時代中期宝暦二年九月御本尊薬師如来の安置に際し、武州川越の住、宮大工星野八右エ門重春の作とあり、間口二間、奥行二間半、草葺の堂宇と、間口三間、奥行二間半の庫裡は遠く江戸時代より幾星霜を経て、漸く頹廃著しく、玆に地区民相計り、今後公会堂として改修使用致すべく、祖先の霊眠る墓地関係者はもとより、広く区内~般の努力により、本堂草莓屋根を瓦葺に、庫裡を亜鉛葺に改修す」とある。
薬師堂墓地は、明治初期に各家の屋敷地近辺にあった個人墓地を寄せ集めて造られたものという。
世話人は現在三名おり、任期はない。昭和三十年ごろまでは上・下(横田は現在四班に分かれているが、かつては上・下の二つに分かれていた)に一名ずついた。呼び方も、世話人とはいわずに当番と呼んでいた。戦前までの横田は二〇軒位のものであったが、昭和三十年ごろから軒数が増え始めたため、三名にしたという。
世話人の仕事は、賽銭の管理、墓地を分譲した時のお金の管理、墓地の清掃管理、薬師堂の修理や土地の管理などである。薬師堂の修理に関しては、檀家の人や区長に集まってもらい、話し合いをする。
薬師堂は、集会所として使われるようになったことから、現在その清掃は月交代で班毎に行っている。ただし墓地の清掃は、春・秋の彼岸や盆の前に、檀家の人たちだけで集まって行っている。
薬師堂の使用方法は、薬師堂に関すること、たとえばその修理や墓地、祭礼についての話し合いの場合は、世話人を通して行われ、地区に関すること、例えば老人会、PTAの集まりなどは世話人を通さず、区長にことわってから使用することになっている。
維持費は、薬師堂が集会所にもなっていることから、組費の中から出されている。
賽銭は適宜に世話人が取り出し、管理しているが、その額は若干で、盆花やロウソク、線香などを購入するとなくなってしまう。
薬師堂の祭りとしては、四月八日がお釈迦様である。戦前までは毎年行われていたが、戦後はその年の地区の人の仕事の忙しさ加減で、行うかどうかを決めるようになり、大体一年か二年おきぐらいに行うようになっている。
この日は、釈迦如来像を預かっている人の家から像を薬師堂に持ってきて飾ってから、小さな柄杓で甘茶をかけて供養する。子どもたちが甘茶を飲みに来るが、今はずい分少なくなってしまった。
七月八日は、キトウといわれる祭りの日であった。祈禱は家内安全・五穀豊穣祈願の祭りで、戦前までは線香をあげてお参りした後は、皆で飲食したり、集まってくる子どもたちに菓子を配ったりした。その後、人口が増えてきて、行ったり行わなかったりし、今から十年程前に中止してしまった。
十月八日はトウロウと呼ばれる薬師様の祭りである。
明治中ごろまでは、花火をあげたり舞台を作って余興をしたという。花火は当日の朝・夕・晚の一日三回あげられ、舞台は祭りの前日、村の人が集まって建て、祭り当日午後二時ごろから四時ごろまで、ゲンタ節や万作踊りをした。踊り手は、桶川の方に住む農家の特に踊り上手な人に頼んだという。
戦後、昭和四十年ごろまでは、朝八時ごろから集まり、線香をあげてお参りした後、午後四時ごろまで堂内の囲炉裏で、持ち寄った野菜や米で煮つけや御飯を作って食べ、茶を沸かしたり酒を飲んだりし、それらを薬師様にも供えたりして楽しんだ。
昭和四十年ごろに囲炉裏を閉じてしまってからは、折詰を頼むようになり、午前十一時ごろに各戸一人ずつ出て、午後三時ごろまで飲んだり食べたりして楽しんでいる。
祭りに僧侶が関与することは、現在もなく今までもなかった。
祭りにかかる費用は、昭和三十年ごろまでは奉納金でまかなわれていたが、今は組費の中から折詰代などを出し、不足分を祭礼費という形で各班長が集めている。
薬師様は目の神様といわれ、他所からも少ないながら参詣に来る人がいる。以前は絵馬などもかかっていた。

<< 前のページに戻る