北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第8章 信仰

第3節 家で祭る神仏

1 屋敷神

祭神の性格
「ウジガミ様は先祖であろう」(東間)「昔からそこの家の守り神だというだけでとりたて何々の神のわかれだということは少ないのではないか」(北本宿)「現在の宅地にはない。元屋敷にある。正月とか、婚礼・出産のときはお参りに行く。分家の人も行くようだ」(北中丸)。
「地先祖」を祭ったものだともいう。「地の先祖の屋敷神をひきついで祭っている。墓もその家のを使っている」(北中丸)。屋敷神は土地につくという考えが強いようだ。又、他家の潰れ屋敷に入った時は、苗字もその屋敷のものを名乗るのが普通である。つまり、その屋敷の神は、現在祭っている家と血のつながりを持つとは限らないわけである。
宮内に「地神宮口、宝暦ロ十一月吉日」、石戸宿に「地神大荒神、寛政九丁酉年正月吉日」というのがある。宮内では「地神宮」を「ジジングウ」と読んでいた。石戸宿の場合は「地神大荒神」を単に「ドコウジン(様)」と呼んできて、文字を意識して読んだことは無いという。「ジ」にしろ「ド」にしろ、いずれにしても「地神」は「地の神」であろう。他市町村の例にも「屋敷神は地先祖(越谷市)・地神(大宮市)である。」「土地の精霊といった意識もあるのである」(倉林正次「日本の民俗11埼玉」第一法規)と述べられている。

写真28 地神大荒神(石戸宿)

中丸十丁目のある旧家では、昭和四十九年ころまで、「ウジガミ様」を「お仮屋」に祭っていた。現在の神屋は、ブロックを積んだコンクリート造りであるが、「以前は、四本柱に杉っ皮の屋根を葺いたものだった。柱といってもそこらの木の枝を折ってきたものを掘っ建て柱にしたもので、片流れに屋根が葺けるように針金で組んだ。五〇センチと一メートル弱の広さ。杉皮は材木屋で買ってきたものを使い、初午の日に葺き替えることになってた。杉っ皮は三年はもった。その前はワラだった。」お仮屋の周りに囲いはなく、吹きさらしのかっこうだった。中には黒っぽい、長径二〇センチの「玉石が四〜五個入っているだけだった。二つしか見えず、他は埋まっていた。」御幣はたてなかった。周囲に神木というようなものはなかった。脇に柊の木があったのでそこに注連飾りを張った。稲荷ではないが初午に赤飯とお米をあげた。初孫が生まれたときにもそうした。正月にはお供え餅をした。「ウジガミ様は分家にはくれない。動かすと元の屋敷に帰りたがる。古い分家は別の所から持ってきている。」北中丸では他にも、新藁で毎年「お仮屋」を葺いていたのを覚えている、と言う人がいた。暮に、正月を迎える準備として作り替えたと言う。土地についている先祖をまつり、年の代わりめごとに神屋を更新するというこの中丸の例は、屋敷神の祭り方の本来的な姿を示しているものとおもわれる。
しかし、古くは十五・六世紀ころから、熊野社(オクマン様と呼ぶ)や八幡神が地域を支配する有力者により勧請されたり、江戸で十八世紀におこった稲荷流行などの影響で、単に先祖の加護を受けることだけでなく、広く他の神々の力をも取り入れていこうという傾向は早くから現われてきたようだ〔表3〕。
下石戸下の稲荷には、使わしめである狐を従えた稲穂を持った老人(倉稲魂神)の小像を祭るものがある。また、石戸宿にはこの倉稲魂神の絵を掛軸にして祭っている例もある。北本市内で稲荷をいつの頃より盛んに祭りはじめるようになったかは解らないが、前記のように十八世紀末の江戸の稲荷の流行の影響を受けたことは考えられる。とにかく、農村部では農作物の豊作を願って稲荷を祭るようになったのである。本来の稲荷を祭る意味はこのようなことなのであったろう。
しかし、明治時代の終わりころから北本でも養蚕が盛んになってくると、稲荷は養蚕の神であるという考え方も顕著になってきたようだ。養蚕農家が少なくなった今日でも稲荷様に糸で連ねた繭が奉納されている様子を見ることができる。東松山市の箭弓稲荷は毎年四月二十日に、供物・箸・掃き立て紙を出すが、「東松山の箭弓様からお姿を借りてくるから、稲荷様は養蚕の神様ではないでしょうか」(深井)、と言う。秩父山間部では初午の日は「オシラサマ(蚕神)」を祭る日だとし、東松山市でも「オシラ講」、「オキナ様」を祭ることをする。つまり、秩父の山間部から比企・入間の丘陵にかけては、初午の日を中心とする蚕神信仰の厚い地域なのであった。北本でも養蚕が盛んになってくると、貴重な現金収入源である繭の豊作を願う気持ちは強く、もともと稲荷の祭日としての初午の行事が盛んであったこともあり、その習俗を速やかに採り入れていったのであろう。
また、北本駅周辺の商店・給与所得者の家では、稲荷に商売繁盛・家運隆盛を願って祭った。今日、純然たる農業地域である高尾の河岸地区では「昔、河岸が栄えた頃は商売をやる家が多かった関係上、ここらの家は稲荷を祭るのは商売繁盛のためというふうに考えている人が多い」という。このような稲荷にたいする考えかたは、埼玉県東半分の地域全般にみられる傾向と同じである。
「稲荷」の祭日は、初午である。「初午には、赤飯、スミツカリを挙げた。どこの家でもやっていたことだ。」(北本宿)。
「初午になるから、麦の検査がある、用意しなくては」「初午すぎたら馬鈴薯の植え付けをしなくては」(高尾)と言った。初午は、今日も北本市内の屋敷神の祭日としてはっきり記憶されているほとんど唯一のものである。

写真29 八幡社 (高尾)

「八幡社」を祭る家は「もと侍のうち(家)だった」と言う人が多い。しかし、八幡社が武神の性格を持ち、武士にこれを祭る者が多かったとしても、八幡社を祭る者が武士とは限らない。市内で八幡社を屋敷神として祭る一二二戸のうち、先祖が武家であったと断定し得る家は極めて少ない。実際に八幡社が守護神として求められていることがらは「家を守ってもらう」こと、つまり病魔・害虫・盗賊退散といったことで、他の屋敷神にもごく一般的に求められるところのものである。殊に、八幡社には、武神としての強い性格にその威力を期待したのであろう。「八幡様は十五夜が祭日」(高尾)という。
粗末に扱うと、すぐ祟る神を祭る家がある。すぐ怒る神の威力は災厄に対しても強力である。「じきに腹をたてる。若宮八幡かもしれない」(常光別所)。「鬼神様は気の损い神様だ」(荒井)。市内に天神を祭る家が一〇軒あるが祟り神としての性格はうかがえず、単に学問の神と解しているようだ。
その他様々な神がいる。「白山様は歯の神様で、治ったら金の鳥居をあげますと言って拝んだ。縫い針で鳥居の形ができる本数、三〜四本あげた。(高尾)」「オサアサマ(御諏訪様)は作神だっていいますね。(荒井)」「百年以上も前、行き倒れの巡礼を世話したことがあったんですって。そしたら、そのお礼に背負ってきた笈の中の金比羅様を置いていったっていうんです。以前はうちでは、鰯をたべてはいけないって言われていたんです。金比羅様はインドの神様で鰯が日本に導いてきたんですって。料理屋を、ずっと前ですけど、やっていたことがあり、商売繁盛のためということで祭ってきたようです。(下石戸下)」「弁天様は女の神様で蛇の神様でしょう。(髙尾)」

写真30 商家にみられる神屋(北本宿)

写真31 新しい形態の紙屋(北中丸)

写真32 石祠(深井)

写真33 比較的古い形態の紙屋(北中丸)



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