北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第8章 信仰

第3節 家で祭る神仏

1 屋敷神

屋敷神の祭り方
市内の屋敷神の約七割は母屋の北西にある。土地の人は「乾(いぬい)」・「西後(にしうしろ)」・「西」等という言い方をする。八幡社については「乾八幡」と言い、八幡様は北西に祭るものだとされている。そのほかについては、北西に祭る理由は解らなくなっていて、「昔から」そうなのだ、ということである。
表4 屋敷神の方角
 1234567891011121314方角小計方角割合(%)
 北中丸花の木常光別所山中古市場本宿東間宮内深井石戸宿下石戸上下石戸下高尾荒井
411133224525334.4
北東9212231213233537.1
13150.7
南東1123112113162.1
1111121191.2
南西561261314545435.7
西24314474555445.9
北西4361641222313036705342967153270.9
21122111112
その他1113
75729121937484549102576111594750100
北東・南西の方角に祭るのは、鬼門を塞ぐためだという。東にほとんど祭られることのない理由は不明。富士南(真南)には屋敷の入り口を付けたり建物を建てることがきらわれるが、同様に屋敷神をたてることもきらわれる。
元の位置から移動している屋敷神が約一割ある。病人が出たとき等に祈禱師にみてもらった結果移したという例がほとんどである。他に、道路拡張工事で宅地がかかり余儀なく移動したという例も結構多い。屋敷神を移動する際、もとの場所の土を持っていったという例(北中丸)がある一方、祈禱師にみてもらったら、墓場とちがうのだから土を持っていく必要はない(高尾)という例もある。
ほぼ九九パーセントの屋敷神の神屋は、母屋から五メートル前後の距離にある。神屋の造りは、平地に玉石を四隅に置き、太目の材木を柱にしてがっしりと組み、屋根は瓦かトタン葺で、畳四分の一弱の広さが普通であった。近世村を代表するような家では母屋から四〜五〇メートルも離れて祭られているものもある。他に、屋敷神ではないが個人祭祀の社で屋敷外数百メートルのところに祭られているものもある。このような屋敷神の神屋は、屋根も分厚い板で作られた白木造りのものや、銅葺屋根で細かい彫刻や彩色を施した一坪以上のものもある。近年、ビルの屋上に祭ったり、また、神屋が壊れてしまったことなどをきっかけに、祭神の「お姿」(御神体)を家のなかにいれてしまうという例が見られる。
本来は、イッケないしはイエの信仰の対象であった屋敷神を、地域の人々も信仰するようになった例がある。管理の手が完全にイエを離れ地域に移っている例としては東間の浅間様、これはもと宮内の旧家のウジガミであった。本宿五丁目(東間新田)の「愛宕様」、これもこの土地の旧家のウジガミだった。無住になった屋敷に残された屋敷神が地域のウジガミになった例もある。南地区(下石戸上、荒井)の「八幡社」と「黒稲荷」の祭りなどの運営は区長を中心に数人の当番で行われている。高尾の「文太郎稲荷」もかっては個人所有のものであったが、現在は講が祭っている。
個人祭祀の屋敷神だが、にぎやかに地域をあげてお祭りをした屋敷神も多い。朝日四丁目の吉田家の稲荷、朝日一丁目の内田家の浅間様、下石戸上の俱利加羅不動。下石戸下の小川家の稲荷、下石戸上の福田家の稲荷などは今日も差kンに初午の祭りをしている。
夜泣きを治してくれる稲荷様も多い。東間の「山王の稲荷」、同じく東間の斎藤隆家、中丸の角田誠家、北中丸の加藤茂家の稲荷など。瘡を治してくれるものに、荒井の川口欣計家の笠森稲荷、下石戸二ッ家の五味家の笠森稲荷、深井六丁目あたりにかってあった「スリバチ稲荷」。深井七丁目の磯崎英信家では百日咳を直してくれる「シワブキ婆あさん」を伝えている。

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