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第8章 信仰

第1節 神社

1 市内の神社

東 間
東間の神社は『風土記稿』によると浅間社一社で、「本地薬師を安ず、秘仏なりとてたやすく示すことをゆるさず」とあり、「別当 宝光寺」の条には「近村宮内村の名主彦兵衛が所持する記録に、鴻巣東新田富士浅間は伊奈備前守御代官の頃、深井藤右衛門及び長楽坊大乗坊勧請すとあり、是当社のことなるべし」とある。
更に昭和五十二年に行われた「北本市内神社調査」(この成果は『北本の神社』として刊行されている。以下『神社』と略す)では「もとは、代々宮内村の名主をつとめた大島彦兵衛家の氏神だったという。(中略)当社も最初は宮内の大島家地所内に祭られていたという。彦兵衛は鴻巣の勝願寺の和尚と懇意であったが、その僧の言に『宮内では、お詣りする人も少ないじゃないか。東間は通りっぱたで人通りも多い、東間には鎮守様がないから持って行ったらどうだ』ということで、東間の勝林寺の近くに祭りなおしたものという。(中略)かつては大島家から行かなければ、浅間様の鍵は開かなかったといわれ、云々」という伝承を載せ、諸記録から見てこれらの伝承には信憑性(しんぴょうせい)が認められるとしている。
しかし、一方ここに「富士大権現略縁起」という木版刷りの一文が残されている。次に掲げてみる。
抑々当社の濫觴(らんしょう)は人皇七十五代崇徳院の御宇に藤原朝臣某の大納言正三位俊行公武蔵の国守に御座有し時、当所へ御狩に出御有て御睡眠有りしに不思議の霊夢蒙り給ふ、我は則汝の守本尊東方薬師如来なり、汝常に駿州富士浅間信心有により今汝の枕に立此所に富士浅間の山を尊び爰を浅間と仰ぐべし、永く国家安全子孫繁昌に守るべしと夢覚め畢んぬ、つとに起きて不思議におもへとも凡心のあさましく月日を送る所に、同年六月十五日又霊夢に立給ふ、紫雲たなびきて女性一人忽然と現し給ひ、我は是天神七代大山住(おおやまつみ)の命(みこと)の娘木花開耶姫(このはなさくやひめ)也、年久敷時節を考へ地神五代鶴鵜草葺不合(うがやふきあえず)の尊(みこと)の心をかりて駿州富士浅間と号す、今来世成といへとも汝の信仰の心によりて此所に富士山を尊び貴賤男女の繁栄の地となすべし、夫山を移し富士を尊び人家繁昌子孫門葉を崇め願ふに同じ偏に疑ひなく社地を建立すべし、則我が本地は東方薬師如来と御詠歌あり、東間路の名のみを里に残し置記木花盛れ此の山のす衛、妙なる御声にて三篇詠し玉ひ東をさして飛び去り玉ふ、俊行信心肝に命して早旦より社地建立の発竣を恵えて早々願成就之事、当社の縁起古より是有所、開帳度々壱千枚の外摺出し不申候 天治より今年迄七百三拾六年間開帳事拾三第也、年数を知らしめん為に改るものなり
                                  武蔵足立郡東間村 別当 東土山宝光寺
  万延元庚申年(一八録〇)六月吉日

ここに記されている東土山宝光寺は、『風土記稿』には「別当 宝光寺、天台宗、川田谷村泉福寺末、東土山実相院と称せり」とあり、「文化年中回録の災に罹り、未だ再興せず」とある。そして『郡村誌』には「宝光寺跡」として「明治四年の頃廃寺となり」と記載されている。
この「略縁起」と、『風土記稿』から「神社調査」に至る伝承とがどのようにつながってくるのか、一応ここでは資料を挙げるにとどめておく。
さて、この浅間神社の祭神は木花開耶姫であり、地域の人は浅間様と呼んでいる。
現在の境内社は、八幡社、天神社、弁天社であるが、各社の由緒などは何も伝わっていない。祭りも特にない。ただ『風土記稿』も『郡村誌』にも『明細帳』『明細書』にも天神社と並んで稲荷社をあげているが、その稲荷社が見当らなくなっている。また、『明細帳』『明細書』にある浅間社もよく分からない。
神官は、現在高尾の氷川神社の宮司を頼んでいるが、その前は鴻巣市小松原の滝本院の先達に頼んでいた。この人は川越喜多院の弟子筋にあたる人で、東間の人たちは何かあると、その人に頼んで見てもらったり、拝んでもらったりしていたという。

図1 境内略図 浅間神社(東間)

氏子の範囲は東間で、昭和十五〜六年ころまでの氏子の数は六七戸位なものであったが、その後徐々に家が増え、昭和六十年には一二〇〇戸ほどになって、その範囲も東間一丁目〜八丁目の全域にわたっている。しかし、中心になるのは戦前からの農家である。
氏子総会(役員総会)は夏祭り前の六月二十日に開かれる。夏祭り前に会計をしめておくので、この総会で年間報告をするのである。この他、社殿などの修理、災害、財産の移動などの際、臨時の氏子総会を開く場合もある。
氏子総代は神社の氏子を代表して、その運営や行事の準備・進行などを行う。全部で一三名(一・三・四・七丁目が一名ずつ、二丁目が三名、五・六丁目が二名、八丁目が二名)で、任期は四年である。総代の中から総代長・会計長・副会計長各一名と監事二名を選ぶ。
総代の決め方は、会合がもたれ、総代が全員集まって次期の総代を決めている。
総代の他に世話人というのがあり、春祈禱や夏祭りなどの切りまわしをする祭典係である。世話人は全部で一八名
(一 ・三・四・五・六・七・八丁目が各二名、二丁目が四名)で、任期は二年である。
世話人一六名の中から世話人頭、副世話人頭、会計、副会計を各一名ずつ選ぶ。この人たちは世話人の任期二年が終わっても、もう一年新しい世話人の指導のために働かねばならない。
世話人の決め方は、八地区(一丁目〜八丁目)に一人ずついる行政側の地区長が、それぞれの地区の世話人を推薦する。昔は年番であったので、氏子全員が必ずやったものだという。
平常の管理などは管理人がいて、掃除などもしている。賽銭は積みたてている。
年間行事は次の通りである。
一月一日・元旦祭、三月十五日・春祈禱、六月三十日、七月一日・夏祭、十月(日は適宜)・秋祈禱、十二月二十二日・冬至祭(星祭)
この他六〇年に一度の庚申年には盛大な祭りをする。これらの祭りには、全て神主が来て祈禱を行う。幟を立てるのは大例祭(夏祭り)の時だけで、総代と世話人とで立てる。
元旦祭(一月一日) 一日午前零時になると、近所の人々が初参りにやって来る。その人たちのために、甘酒やみかん、煎餅を用意する。
神主が来て社殿で祝詞をあげると、神主はすぐ帰ってしまい、その後は氏子総代が残って参詣者の接待をする。
この元旦祭にはお札も売られる。
春祈禱(三月十五日) 北埼玉郡騎西町の玉數神社からお獅子を借りて来て、村内を回り疫病除けを行う。終わりに氏子総代、区長が集まり直会(なおらい)をする。
夏祭(六月三十日〜七月一日) 三月の春祈禱のころ夏祭に配る団扇約八千本を業者に注文する。六月に入ると世話人は夏祭の宣伝のビラを配る。二十日には氏子総会が開かれるが、これが終わると花火師、演芸師などへ祭の余興の申し込みをする。また、祭日の際のために警察に交通整理の依頼をし、消防署に花火の許可を受けに行く。
六月三十日が近づくと、その直前の日曜日に世話人が舞台を作るが、昭和五十九年からは専門家にまかせている。また草取りや灯籠つけをするが、これはかって老人会がやっていた。
六月三十日は灯籠といって宵待であるが、午後三時頃から参詣者が来始める。誕生日前の赤子を連れた親たちが、赤子の初山に来るのである。初山にきた赤子は額に印を押される。(参照422頁)
例年二日間で一二〇〇人前後の参詣者があり、菖蒲・鴻巣・吉見・桶川などの遠方からも来る。初山に来た人は、お土産に団扇を買っていく。
七月一日の午後二時ころになると、神主が来て御祈禱をする。
各家では、必ず新小麦で饅頭を作り、浅間様と家の大神宮・恵比寿様・荒神様・床の間に供える。親類の者が来ると、持たせてやったりもする。この饅頭は、どんなに忙しくても必ず作り、家の小麦が間に合わないと近所で借りてでも作る。饅頭の中には餡(砂糖)を入れる。
夏祭の祭典費は、戸数割にして徴収する。他に金や酒を寄付する人もある。かつては金を徴収するのではなく、芝居をする舞台に使う縄を出させたりもした。
秋祈禱(十月) 秋祈禱は作物の感謝祭である。神主が来て御祈禱をするので、氏子総代が出席する。
冬至祭・星祭(十二月二十二日) 神主が来て護摩(ごま)を焚いて御祈禱をするので氏子総代が出席する。またこの日に、十五日ころまで注文を取っておいた御幣(ごへい)、お札を氏子に配る。
『神社』には「冬至祭は、もとは全戸から出て庭に火を焚き荒行を行っていたが、現在は総代だけ参加し、火鉢の中でしるしばかりの火を焚く」とあり、冬至に火祭りをしていた話を載せている。
浅間神社の御利益については、祭神が女の神様であることから、安産、子育てに御利益があるといわれている。

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