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第9章 年中行事

1 概説

年中行事とは、毎年暦の上で同じ日がくると、同じような営みがくりかえされる伝統的習慣的な行事をいう。「歳時」とか「歳事」ということばも、年中行事と同様の意味で使われている。埼玉県では一般に「モノビ(物日)」とか「セック(節供、節句)」「〇〇ショウガツ(正月)」「オリメ(折り目)」などと呼んでいる日にあたり、普段の生活をするケ(褻)の日に対して、特別なハレ(晴れ)の日である。野良仕事を休み、普段と違った御馳走や餅、団子、マンジユウ(饅頭)、カユ(粥)などの品変わりをこしらえて、神様に供え、人々もいただく日といってもよい。
雛祭や端午などの代表的な年中行事をセックという。現在では、「節句」の字をあてるのが一般的であるが、古くは「節供」と書いていた。本来セックとは、節にあたって神に神饌を供えて祭る日の意味だったのである。
年中行事は人々の生産生活と密接な関係を持つものが多く、一年間の生活の折り目折り目に当たって、豊穣を祈願したり感謝したりするために、神を迎え祭る日といってもよいであろう。村あるいは地区共同で行う氏神の祭や厶ラキトウ(村祈轉)のようなものもあるが、大半は盆・正月などのように、村ごとにほぼ同様の行事を行いながら、細部にわたると各家ごとにしきたりに従って行っている、家の行事的色彩の強いものである。
年中行事は暦に従って行われる。ところが県内には旧暦と新暦、月遅れなど、さまざまな暦法が行われてきた。旧暦というのは月の満ち欠けを基準とした太陰暦で、明治六年の太陽暦施行まで普通に行われていた。しかし、月の周期と太陽の周期がくいちがうため、月だけに頼って日を数えると、毎年の日付と季節のすれがどんどん大きくなる。そこで二十四節気や閏月をおいて調節し、太陽の運行にも合わせているので、正しくは太陰太陽暦と呼ぶべきものであった。
新暦はまったく太陽の運行に基づくもので、年によって月の大小が異なったり、閏月をおくなどの必要のない合理的なものである。ただ旧暦から移行すると、新暦は同じ行事が一月も早くなり、季節のずれが起こった。雛の節供に桃の花が咲かず、花祭に卯の花も藤の花もない。また、旧暦の年中行事の日取りは、トウカンヤ(十日夜)までに麦を播き、六月一日の浅間様の初山には新小麦のマンジュウを食べるなど、農作業の目安にもなっていたが、新暦では早すぎてどうも具合が悪い。そこで、月遅れといって新暦の日取りを基準に、旧暦に近づけるためにちょうど一月だけ遅らせることが一般的に行われている。
昔から「カッコウ鳴いたら豆を播け」といい、カッコウを豆播き鳥と呼ぶ。カッコウは八十八夜時分になると鳴く。暦なら「八十八夜に豆を播け」となるところであろうが、暦でなくて鳥の鳴き声を目安にしているところが注目される。季節の移り変わりに敏感な日本人は、暦以前から、草花が咲き、鳥が鳴くなど身近な自然の動きによって一年の周期をとらえ、農事の目安にしていた。これも立派な曆であった。人々が暦に頼るようになり、この自然暦はどんどん消滅していったのであろうが、年によって季節の移り変わりが早い年も遅い年もあり、農事の目安としては、自然暦のほうがすぐれていたともいえよう。
日取りを数えるには、暦以前には月の満ち欠けによった。満月の十五夜と新月の一日、ついで半月の七、八日と十二、三日に年中行事が集中しているのはそのせいである。
一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日など、陽の月と日が重なる日を節供とする風習は、中国伝来のものである。中国の五節供は唐代に固定化して日本に伝えられ、平安貴族階級の間に取り入れられていったが、広く一般に普及したのは江戸時代になってからである。そして、中国伝来の行事と日本古来の民俗行事とは、本質的に日取りに従って再編されたものと見るべきであろう。
このような暦の日取りによる年中行事のほか、初午や卯の日など、十干十二支による行事もある。干支も中国から伝来したものであるが、午、丑など特定の日だけに年中行事が集中しているのは、それぞれの日を動物に当てて連想する日本的なものである。そして、ウマ・ウシ・サルなど、行事が集中している日に当てられた動物は、それぞれ神の使徒と考えられるなど祭と深い関わりのある動物なのである。
日本の年中行事にみられる根本の原理として、折口信夫の説く「繰り返しの論理」を上げねばならない。折口信夫によれば、年中行事の基本は同じ事の繰り返しであるという。つまり、元来神が来臨するのは年に一回だけでよいはずのものが、それでは心細いと思われるようになると次第に回数を増やしてくる。秋祭、冬祭、春祭はもともと年の変わり目の一連の行事であったが、暦によって春夏秋冬の季節が別に設定されると、秋祭、冬祭、春祭とそれぞれ独立した祭になっていったというのである。
正月と盆、春秋の彼岸、エビス(恵比寿)講などの対応は、一年が四季に分けられる以前に大きく二期に分けられていたことを思わせる。稲を中心とした田植え、稲刈りなどの周期に、麦の収穫と播種が重なり合って、夏と秋の年中行事を構成している。
これらの様々な要素に加えて、旧暦、新暦、月遅れと三種の暦が並立し、あるいは古くから行われてきた伝統的な行事のほかに、強力な力で伝播してきた新しい行事が加わり、並行して行われ、年中行事を複雑にしている。

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