北本市史 民俗編 民俗編一覧
第9章 年中行事
第2節 春から夏の行事
7 七夕
七夕は、幼維園児のいる家などでは、園で七月七日にあわせて七夕飾りを作らせるため新暦でやるが、普通は月遅れで八月七日に行っている。北本市内の七夕の特色としては、短冊をつけた笹竹を立てることと、マコモの馬をこしらえて飾ることをあげることができよう。写真29 七夕、里芋の露をとる(荒井)
馬作りは、一週間ぐらい前の、川辺のマコモ刈りから始まる。それを陰干しして青く乾かし、柔らかくして六日の日に長さ二メートルくらいのマコモの馬を作る。馬は普通雌雄二頭で、タテガミのあるのが雄、ないのが雌などといっていくらか形を違えている。馬は各家々でこしらえるのが本来だが、こしらえた馬を売りにくることもあった。川田谷(桶川市)の泉福寺に団子屋やアイス屋と一緒に売り屋が出たので、マコモの馬を買って来る人もあった。川が汚れてマコモが少なくなったり、面倒になったりしてめっきり作る家が少なくなっている。
写真30 七夕の馬作り(高尾)
七日の朝、座敷や七夕竿の見える縁先に膳を用意して、朝は小麦まんじゅう七個、昼はうどん、夜は御飯などを七夕様に供える家(石戸宿)もある。
織り姫と彦星が会う時に川を越えて行かなければならないが、深いところは馬に乗って渡るのだ(石戸宿)という伝承以外には、この七夕の馬の意味を直接説明する伝承は聞き出せないが、これらの供え物は馬に供えるのだというところからみると、七夕に迎える神霊のお迎え馬の意味があるのであろう。
写真31 七夕飾りと供物(荒井)
七夕に雨が降ると、今年は豊作だと喜んだ(高尾)とか、七夕には雨が少しでも降って短冊がその雨で落ちる方がいい(荒井)などという伝承は、せっかくの年に一度の逢瀬を邪魔する無粋な話であるが、それだけに中国伝来の星祭り以前の、古い伝承を伝えているのではないだろうか。七夕の朝、七夕竿の朝露を頭に浴びると頭痛がしない(石戸宿)、七日の朝頭を洗うと汚れがよく落ちる(深井)、七夕に髪を洗うと馬の尻尾のように髪が長くなる(高尾)、七夕の日は、午前中に髪を洗うと洗い粉を使わなくてもよく落ちる、また、頭の痛いのを知らないといってよく洗った(下石戸上)などの伝承は、この日禊を行って神を迎え、またそのカによって病魔をはらった名残りだったのではないかと考えられる。子供が丈夫に育つように祈って、マコモの馬に子供の着物を着せた(石戸冶)という伝承もある。
秩父郡、児玉郡の全域と、それに隣接した大里、比企郡の一部では、七夕の笹飾りにネムの枝を添えて飾る。そして七夕が終わって笹飾りを川に流す時、「ネブタは流れろ、心は止まれ」などといいながら、ネムの葉で目をなで顔を洗う。そうすると目の病気にならないとか、眠気が覚めるといわれている。この習俗も七夕の禊の変形であろう。
では、禊をして身を清め、マコモの迎え馬をこしらえて迎える七夕様とは、何だったのだろうか。それは作神であろう。七夕のマコモの馬を作る時、一緒に種を入れる俵を編んだ。この日に編んだ俵に入れておくと、虫がたからない(深井)という伝承は、七夕が特別な日で農作にも関係する日であることを物語っている。
先に述べた供え物の中に、大豆、小豆、インゲン豆など豆類が多いのは特筆される。また、この日はマコモの馬に乗って七夕様が豆畑を見回っているので、午前中は豆畑に入ってはいけない(浦和市大久保領家)とか、七夕様がこの日ツルに足を引つ掛けてころばって怪我をしたので、昼前はツル畑に入ってはいけない(同北原)など、豆畑に入ってはいけないという伝承が県下に広がっている。だから、インゲン、キュウリ(胡瓜)などの蔓物は、前日のうちに取っておくものだという。このことは、七夕にこれらの豆類を初めとする夏作物の収穫祭的な意味があったことを暗示するのであろう。
七夕が終わる七日の夕方には、笹飾りは川に流したり、田や畑にカガシ代わりに立てる。マコモの馬は子供がおもちゃ代わりに往還を引いて歩いたが、キゴヤ(木小屋、農具置き場)の入り口や天井に縛っておくと、魔除け、泥棒除けになるといったり(深井)、屋根に投げあげておいたり(石戸宿、下石戸上)した。あるいは、子供がおぼれた時にマコモの馬で体を撫でると生き返るとか、馬を燃やして当たらせるとよいといって保存しておいた(高尾・深井)ともいう。竹にしろマコモの馬にしろ、神迎えのものなので特殊な力がこもっているとみなされたのである。
高尾の鈴木かねさんは、お盆に迎える御先祖様が途中まで七夕の馬に乗ってきて、お盆の時にはナスとキュウリの牛馬に乗り換えて来るのだという。七夕の日から盆の墓掃除を始める所も多く、七夕は盆とのつながりも考慮しなければならない。