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第9章 年中行事

第4節 秋から冬の行事

2 十、十一月の行事

トウカンヤ(十日夜)
十一月十日(月遅れの十月十日)は、トウカンヤである。子供たちがワラデッホウ(藁鉄砲)を作り、「卜ウカンヤ、トウカンヤ、トウカンヤのボタモチは生でもよい」といいながら、集団で家のまわりをたたいて回った。ワラデッポウは、里芋のカラ(ズイキ)を芯にしてわらを縄で棒状に固く巻くと、ポーンポーンとよい音がする。藁のミゴの部分を二つに分けて縄にない、丸く輪に結んで持つところを作り下から縄てくるくると巻いていって縛る。各家では、子供たちに菓子など与えたので、子供にとっては大変な楽しみだった。となえ言葉は「イネコのボタモチ生でもよい」(石戸宿)ともいい、土地により少しずつ違っているが、この時期は農家が忙しく腹がへるので、生のボタモチでもよいからたっぷり持ってこい、という意味であるという。トウカンヤにはボタモチを作り、トウカンヤ様(床の間)や他の神様にも供えた(高尾)。トウカンヤには麦藁で御飯を炊いてたべた(台原)ともいう。

写真46 十日夜のワラデッポウ作り(下石戸上)

ワラデッポウを打つのは、その音でモグラが逃げるからとか、この時期に播いた麦をモグラが荒らすのを防ぐためのモグラ追いの行事だ(石戸宿、下石戸上)、野鼠退治のため(下石戸上)などという。また、大根畑で地面をたたくと、大根がたまげて抜け出るとか、でかくなる、大根が喜ぶ(下石戸上、荒井)といったり、この日から大根を食べてもよい日だ(石戸宿)ともいう。あるいは農家で麦畑のサクを切る時畑のゲーロ (蛙)を殺してしまうので、その供養である(古市場)ともいう。また、トウカンヤの晩に早く寝るやつは馬鹿だ(下石戸上)ともいう。この晩はワラデッポウ打ちから脱線して、子供たちが隣の村に殴り込みをかけに行き、よく喧嘩になったという。ワラデッポウは解いて縄にして使ったり、ワラジにした。また畑に持っていった。
麦播きは十月中旬から十一月初めにかけておこなわれるが、十一月三日の文化の日(旧明治節)が麦の播きシンだといわれていた。このころが麦播きの適期で、この日を中心に播くといいというのである。
また、麦を播くのを忌む日がある。戌の日や寅の日には普通麦は播かない。トウカンヤは犬の供養ともいい、河岸には次のような伝承が残っている。
弘法大師が支那に行って、初めて麦を見た。あまりに珍しいので、悪いこととは知りながらひとつかみ盗み、竹の杖に入れて持ち帰ろうとした。その時突然農家の犬が吠え出して鳴き止まない。主人が出てきて、何か悪いことでもしたのではないかと問うたが、何もしないと答えると、疑った非を詫びて、犬を打ち殺して詫びた。その時盗んで持ち帰った麦種が日本の麦の始まりだが、犬の供養のため十日夜にボタモチをこしらえて供えるのだという。また、戌の日には麦は播かないのも、そのせいである。そして、十日夜のワラデッポウ打ちの唱え言葉にも「トウカンヤ、卜ウカンヤ、イヌコロ (犬ころ)ボタモチ生でもいい」と残っているのだという。
この話は県内はじめ東京などにも、かなり広範に伝承されているものであるが、あるいは舟運関係者によってもたらされたものかもしれない。荒唐無稽の話のようであるが、麦の外国伝来説話であり、また麦作に伴う動物の生贄伝説としてとらえることはできよう。
麦播きが終わると、播き上げの祝いをする。高尾では、マキアゲといって団子やボタモチ、うどんなどをこしらえて神様や床の間、氏神様に供えて祝う。荒井ではアナップサゲとかモグラの穴ふさぎといい、ボタモチを作って食べるほか、鼠の穴にころがしこむ、あるいはモグラの穴に入れるという家もある。そして、トウカンヤを麦播き終いの目安にし「トウカンヤまでには播け、これより遅れると収穫が減る」といった。
播種儀礼は家ごとに麦播きの終わった直後に行うのがふつうであるが、このように月遅れの十日夜、十一月十日まに麦播きを終え、十日夜が麦播きじまいだというところも多い。下石戸下のあたりでも、十日夜が麦の播き終いの目標の日ともされ、麦の播き上げ祝いを兼ねて行うことが多い。畑の道具、ことに麦作に使ったサク切り鍬やウネ立て用の縄、種振り用のざる、ホークや収穫用の鎌、升や斗升、そして肥桶まできれいに洗って飾り、里芋入りのボタモチとケンチン汁、菊の花の胡麻よごしなどを箕を伏せた上にのせて供える。箕を伏せるのは蛙の姿をかたどったもので、蛙に供える意味を持ち、畑仕事で殺したり傷つけたりした蛙の供養だとか、一年間の農作業を終えて作神樣がお帰りになるので、蛙がお供で供物を背負ってついていくのだともいう。

写真47 十日夜の麦まき終い(下石戸上)

畑作卓越地域の北本市では目立った伝承がないが、十日夜に田から刈ってきた稲束にボタモチを供える所もある(浦和、白岡など)。十日夜は、稲の収穫祭であり、また秋の祭りの大事な供物である大根の収穫祭でもあったのであろう。そして、麦の播種の時期に当たって、麦の成育を祈る意味もあわせ持っていたのである。年中行事が麦作儀礼化し、麦作過程の折り目と目せられているのも、麦作県埼玉の特徴の一つである。
十日夜の伝承では、モグラをことさら意識している。表面的には、麦播き終いに当たって畑の害獣として追い払っているようにみえるが、わざわざモグラの穴にボタモチを入れてやる伝承など、むしろ古くは蛙同様作神の使わしめとして、麦播き終いに豊作を祈願して供物を供していたのかもしれない。
ところで、近畿地方では、十月十日でなく、十月亥の日が亥の子節供といって同様の行事を行う日となっている。トウカンヤを祝うのは、埼玉、群馬、長野、山梨を中心に、栃木、新潟、福島あたりで、神奈川、静岡以西の亥の子地帯と対比される。北本にも「イネコのボタモチ生でもいい」という唱え言があるが(石戸宿)、埼玉県では北足立、入間など東京寄りの地域で、イネコという言葉が聞かれる。ただ十二支の亥の子の意識は全くなくて、先に述べたとおり犬の子と考えたり、稲このボタモチの意と考えるなど、言葉だけの伝承である。多分十日夜地带の本県に、後に江戸などの亥の子地帯からイノコの言葉だけが伝播してきたものであろうが、埼玉は刈り上げ儀礼における東西文化の接点ということもできよう。

写真48 十日夜の膳(下石戸上)

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