北本の仏像

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Ⅰ 北本の地理と沿革

埼玉県のほゞ中央部、国鉄高崎線沿いにある北本市は面積19.63㎢、人口約48,000人ほどの新興地方都市である。地理的には大宮台地の北部に位置し、東西約8km、南北6kmとやゝ横に細長い地形を持ち、西に荒川、東に赤堀川が流れて市の東西を限り、北は鴻巣市、南は桶川市に接している。
市域の大半は海抜20~30mほどの洪積台地上を占めているが、東西の赤堀川、荒川沿い、および市中央部から南に流れる江川沿いは小規模な谷戸のいりくんだ低湿地となっている。人家や主要交通路はいずれも台地上に展開しており、ことに市中央部を南北に縦貫する国鉄高崎線、およびその東側を併行して走る旧仲仙道、国道17号線沿いには市街地の発達が著しい。
同市はかつて足立郡に属しく明治12年3月28日旧本宿村から北本宿村に名称変更して以来、同22年他九ヶ村とともに中丸村、昭和18年2月11日石戸、中丸2ヶ村を合併して北本宿村、同34年10月31日北本村と数度におよぶ改称・合併を繰り返し、同34年11月3日に北本町として町制を施行、その後昭和46年11月3日に市制を布き今日に至っている。
市域は、市のほぼ中央部を南北に縦貫する国鉄高崎線によって大きく東西に2分され、凡そ東部は中丸地区、西部は石戸地区に区別されるが、中丸地区は北中丸、北本宿、東間、深井、宮内、山中、古市場、常光別所、花ノ木の各大字区、石戸地区は下石戸上・下、荒井、高尾、石戸宿の各大字区に分けることができる。これらの大字名は、概ね江戸後半期以来の旧村名をそのまま踏襲しているといってよい。試みに文政11年(1828)に成立した『新編武蔵風土記稿』(以下『風土記稿』)をひもといてみると当時の中丸地区は鴻巣領に属し、往古の宿駅本宿村を中心に深井上・下、東間、宮内上・下、山中、古市場、中丸上・下、花野木、別所の都合12ヶ村によって構成されていた。このうち本宿村の名称は、慶長9年(1604)に今の鴻巣に宿駅が移るまで同地が仲山道筋の旧駅であったことに由来するもので、正保年中(1644~47)頃には本鴻巣村と称していたということから推すと、かつて同地は鴻巣領の本郷的な位置にあったとも考えられる。また、同書によると深井、山中、中丸、古市場の4ヶ村を解説して、鴻巣郷(一に庄とも作る)深井庄に属す、と見える。この郷庄名の歴史的由来は明らかでないが、深井庄の名の起りと思われる深井村は、岩槻太田氏の旗下で在名を姓とした深井氏の開発によるところ多く、村内小名堀の内はその居住せし所とあり、その深井氏代々の墓所である村内寿命院には、今日十数基におよぶ南北朝・室町期の板碑が遺されている点等から推すと比較的早くから拓けていた土地のようである。この他鴻巣領の東端に位置する別所、花野木2ヶ村は頼朝草創と伝える別所村無量寿院の所領であったというが、その確かなことは分からない。東間村は中丸地区では最も新生の村らしく寛永・正保の頃には未だ東新田と呼ばれており、村となったのは元禄の頃からのようである。
一方の石戸地区は当時石戸領に属し、かっての鎌倉街道の宿駅と伝える石戸宿村ほか下石戸上・下、高尾、荒井、同枝郷北袋の6ヶ村によって構成されていた。石戸宿は石戸領内20ヶ村の本郷で古くから鎌倉街道と呼ばれる鴻巣・川田谷往還、および岩槻と比企・入間地方を結ぶ東松山、川越住還が交差する交通の要衝地として開けた土地である。往時は石戸町と称し、年に四度ほどの市がたてられたかなり栄えた所らしく、今日でも街道筋の屋並みに宿場町的な面影が留められている。宿の東方小名堀之内には、 ”蒲ザクラ”や”貞永二年(1233)の板碑”で知られる東光寺があり、同所はかつて頼朝の弟蒲冠者源範頼の居館であったとの伝説(一説に鎌倉幕府の御家人石戸左衛門尉ともいう)を語り伝えている。その真偽はともかく、現に同所一帯は鎌倉時代に遡る中世城館跡として認められる歴史の古い土地である。また、宿の西方荒川縁には戦国期、岩槻・松山。川越城の連絡砦として築城された石戸城(天神山城)の遺構が存在している。これらのことから判断すれば、石戸宿村は既に中世に於て、政治的、軍事的な要衝地として、相当な開発を受けていたことが知られよう。この石戸宿村の北方に連なる荒井、高尾、の両村も、同様に歴史は古そうである。ことに高尾村は、『風土記稿』に当時民戸160余り、古くは田高村と呼び、錬倉右大将家の臣石戸某の果地、後鎌倉浄楽寺領及び大串氏、本部氏の朱地を経て、永正2年 15鰤 太1面美濃守資家が領分となった、と見えており、往時は石戸宿村とともにかなり繁栄をみた土地らしい。高尾、荒井両村にには、石戸宿と同様荒川に渡場があり、各々「高尾渡」「世戸井縫と呼ばれ賑わつたことが知られているが、特に高尾の渡しは、近世荒川の舟運の河岸の一つとして殷賑を極め、3軒ほどの船問屋が倉を並べていたという。下石戸上・下両村についてはあまり詳しいことは分からないが、『風土記稿』に載せる「天正18年(1590)伊奈熊蔵の御知行書立」文書には、下石戸下の小名雑敷の名が見えることからすれば、既にその頃にはある程度開発の進んでいた土地と思われる。
以上が『風土記稿』に基づく中丸・石戸両地区の大方の治革である。両地区とも戦国期には岩棚城の支配下にあったらしいが、その実態は史料の不足もあって不明に近い。

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