北本地名誌

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Ⅰ 北本市の概観

3 沿 革

 (3)近 世

〔旗本牧野讃岐守康成の知行地〕江戸期は幕府領・旗本領・寺社領からなり、村数は正保年間(1644~'48)には14か村、明治元年には15か村となった。旧石戸村は前述したように旗本牧野讃岐守の領地であった。牧野讃岐守康成はいうまでもなく家康譜代の家臣で、石戸城を中心に石戸宿、現上尾市域の畔吉・領家・小敷谷・藤浪・古泉、現桶川市域の日出谷・川田谷、現鴻巣市域の馬室諸村を知行した。その子信成は父の跡をついで、寛永3年(1626)御留守居となり加増2,000石、同10年さらに加増4,000石をえて1万1,000石となり、石戸藩主となっている。しかし、正保年間に下総関宿(せきやど)に移封となって廃藩となった。旧中丸村は当初幕府領であったが、江戸期後半以降は幕府領はわずかとなり、ほとんどが小禄の旗本領に編成替えになった。
〔旧宿本鴻巣村〕 江戸期にはいって、本宿村に置かれていた宿駅が今の鴻巣に移されたいきさつについては、新編武蔵国風土記稿は、次のように述べている。本宿村は、「古え宿駅なりしが、慶長年中今の鴻巣へ移せしよし、正保の国図には本鴻巣村と記し、元禄の図中には本宿村とあり、古街道の跡は東方に当り云々」とある。他方、同書は鴻巣宿について、「鴻巣宿は………当宿の旧家小池三太夫が家伝に、祖先長門守と云し人、元来は埼玉郡岩槻の市宿と云所に住せしに、天文20年北条氏康の命を請て当所に砦を築き、同年9月朔日、かの地より愛に移りて則ち原地を開て市宿新田と名付居住せりと。当時は今の本宿村入継場たりしを、後慶長7年に至て彼宿を当所に移せり。依て市宿新田の号を改て鴻巣町と呼べり云々」とある。以上の記述が移転の事実をよく物語っている。移転の理由については、距離上からして桶川~熊谷間に1宿を定めるとすれば、本宿の地より鴻巣の方が、ほぼ中間にあたり、何かにつけて便利であったからであろうと思われる。
なお、舟運としては荒川に面した高尾・荒井・石戸宿にはそれぞれ河岸場が置かれていた。武蔵国郡村誌によれば、高尾河岸には荷船40石積4艘、20石積1艘渡船2艘が用意されていた。

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