北本地名誌

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Ⅰ 北本市の概観

3 沿 革

 (4)近 代

〔農業経営の近代化〕 明治・大正・昭和の20年までは、当市域は台地ゆえ畑作を中心とする養蚕・陸稲・甘藷の生産が盛んな純農村であった。特に第二次世界大戦前の農産物の中で特筆すべきものに、旧石戸村のトマト栽培がある。これは大正期の末、地元の農業の実地研究指導として結成された農友会の採種事業として出発したものであるが、昭和に入ってからは、「トマトの石戸」としてその名を全国に知られるようになり、 トマトケチャップエ場も同村に設立され、輸出の貴重な一翼を担っていた。 こうした先進的農業の伝統は、 現在にも引き継がれ、首都近郊という立地条件も生かして、蔬菜類・果樹・植木苗木・花卉などの栽培農家のほか、菊やシクラメン・洋ランなどの高級な栽培もみられる。
〔北本宿駅の開設〕昭和3年8月1日に、長年の念願がかない、平地林を拓いて国鉄高崎線北本宿駅が開設された。以来徐々に駅を中心に人家が集まるようになり、昭和10年代後半になると、中山道沿いに商店も増えて半農半商の様相が濃くなった。第二次大戦後の第2・3次産業の発展は、いち早く当村にも影響を与え、農家の出稼ぎが増加するとともに、近隣農村からの転入者が目立ってきた。
〔急速な都市化〕 当村の人口増加が目立ってきたのは、昭和30年ごろからである。これは首都圏45kmに位置するという近郊性に加えて、台地上に広い畑と平地林が残されていたことによる。昭和34年には村から町に変わり、昭和37年国道17号が開通すると、おりから進行中の高度経済成長と重なって、各種の工場が進出してきたばかりでなく、昭和39年に300戸近い団地が進出したのを皮切りに、以後陸続と団地の進出が相次ぎ、公営・民営合わせて20近い団地が造成され、これに伴って人口は急増の一途をたどった。昭和46年には市制をしき、この年日本住宅公団による2080戸の大団地が進出し、昭和54年秋には人口が5万人を超えた。

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