北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

1 下石戸上

〔近世〕下石戸上村 江戸期~明治22年の村名
かつて石戸村と名乗っていたが、江戸時代のはじめごろ、下石戸上村と石戸町に分村したと推定される。そして、下石戸上村から少なくとも元禄期以前までに、下石戸下村は分村した。足立郡石戸領のうち。古い時代の郷荘名は不詳である。旗本牧野氏の知行地。検地は寛文8年(1668)、持添新田の下石戸村新田は寛政6年(1794)検地し、幕府領となる。村高は「元禄郷帳」で307石余、以後はずっと変らなかった。村の規模は東西18町・南北10町余、高札場は村の東方に1か所。荒井・高尾・石戸宿村3か村との秣場(まぐさば)への入会権や荒川の河川敷の開発をめぐって論争が絶えなかったという。神社に氷川神社と天王社、寺院に貞観6年(864)慈覚大師の創建と伝えられる天台宗医王山真福寺、本山派修験楊門院があった。化政期(19世紀初めごろ)の家数は60軒であった。
明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数88、人口450、馬20頭であった。飛地が多く、主な物産に米・麦・大豆・小豆・アワ・ヒエ・菜種・甘藷・清酒があった。同12年北足立郡に所属、同22年石戸村の大字となる。
〔近代〕下石戸上 明治22年~現在の大字名
はじめは石戸村、 昭和18年から北本宿村、 同34年11月から北本町、 同46年11月から北本市の現行大字となる。入口は明治22年512人、昭和45年3,255人。昭和41年公社団地250戸、同47年同400戸余、同46年日本住宅公団が進出、人口が激増した。同48~51年一部が中央1~4丁目、同49年本町1~8丁目、同51年西高尾1~8丁目の各一部となった。

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