北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

13 常光別所

〔中世〕別所村 戦国期にみえる村名
足立郡のうち。天正5年(1577)3月11日の太田助次郎判物に「鴻巣別所村百姓中」にあてて、当村の開発を命じ5年間を無税と定めて新田開発を推し進めた。
    太田助次郎書状
  不作之所従当五年荒野に相定之間、何も精を入開発可有候、無申迄候得共、近年之開に
  不待合様に被致之肝要候、依状如件、
     天正五年丁丑三月十一日
                  助次郎(花押)
            鴻巣別所村百姓中
〔近世〕別所村 江戸期~明治4年の村名
足立郡鴻巣領のうち。郷荘名は不詳。はじめは幕府領であったが、元禄4年(1691)一部が旗本横田氏の地行地となり、同6年残りが旗本阿部氏のものとなった。検地は寛永6年(1629)村高は「田園簿」で147石余、うち田76石、畑71石余。「元禄郷帳」151石余で以後は変らなかった。村の規模は東西11町・南北6~7町。用水は深井村に同じ。化政期の家数は30軒余。高札場は村の中央に2か所。鎮守は白山玅理社、寺院は新義真言宗大雲山無量寿院・同法乗坊。明治4年埼玉県に所属。同年常光別所村と改称した。
〔近代〕常光別所村 明治4年~22年の村名
明治4年4月の戸籍法の制定以後常光を冠するようになったと思われ、同年の区制の資料に常光別所村とみえるが、「郡村誌」には、依然として別所村とみえる。明治9年の戸数39、人口207、馬6。法乗坊は同4年に廃寺。主な物産に米・麦・鶏卵・繭・大豆・小豆・アワ・ヒエ・ソバ・大根・人参・甘藷・胡麻・綿子・白木綿・縞木綿・菜種・荏油・胡麻油・菜・生糸・油かすなどがあった。同12年北足立郡に所属、同22年中丸村の大字となる。
常光別所 明治22年~現在の大字名
はじめ中丸村、昭和18年から北本宿村、 同34年11月から北本町、同46年11月から北本市の現行大字となる。人回は明治22年236人、昭和45年328人。大正15年、一部を常光村(現鴻巣市)へ編入した。

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