北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

2 下石戸下

〔近世〕下石戸下村 江戸期~明治22年の村名
足立郡石戸領のうち。古い時代の郷荘名は不詳である。旗本牧野氏の知行地。検地は寛文8年(1668)、持添新田があり寛政6年(1794)に検地をし、幕府領となる。村高は「元禄郷帳」で397石余。村の規模は東西18町余。南北11町。村内を中山道が通る。小名に刑部谷があり、「吾妻鑑」に見える伊東刑部左衛門尉祐頼が住んだ地と伝える(新編武蔵)。また、小名雑敷は天正18年(1599)9月7日の伊奈忠次知行宛行状に
御知行書立
一あせほし 一領家 一こしきや 此内に小林村 一ふちなみ
                           こいつみ
一ひてや 一河田や 一石戸八幡原      一まむろ
               さらしき
右之分百姓能々御せんさくに而御所務可有之候、来年御縄打之上不足に候はヾ足可申候、あま
り候はゞ御返し可被成者也、仍如件

天正十八年庚寅九月七日             伊奈熊蔵印

牧野半右衛門殿
と見え、さらしきはさうしきの誤りで、当地の雑敷のことと推定される。鎮守は下石戸上村の氷川神社である。このことは、本村が下石戸上村から分村した証左といえよう。寺院に天台宗´池端山修福寺・同安楽山大蔵寺があった。化政期の家数は80軒であった。
明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数84、人口425、馬22頭がいた。飛地は村の西方の荒井村に1か所、石戸宿村に1か所、ほかに1か所。公立小学校は大蔵寺を仮用し、石戸宿・下石戸上・下石戸下。日出谷・本宿の5か村の児童が通学、生徒数は107人であった。なお、修福寺は明治4年に廃寺になっている。主な物産に米・麦・岡穂・大豆・小豆・甘藷・菜種・荏胡麻(えごま)、薪、栗、鹿朶があった。同12年北足立郡に所属。同22年石戸村の大字となる。
〔近代〕下石戸下 明治22年~現在の大字名
はじめは石戸村、昭和18年から北本宿村、同34年11月から北本町、同46年11月から北本市の現行大字となる。人口は明治22年532人、昭和45年3,856人。一部が昭和48~53年の間に、中央1~4丁目、本町1~8丁目、本宿1~8丁目、西高尾1~8丁目に組み替えられた。

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