北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

4 高尾

地名の由来は、高いところを意味するタツコの転化の意という(地名誌)。地内には縄文期の遣跡である高尾、宮岡、東谷足遺跡がある。新編武蔵は、「相伝ふ、当村は古は田高村と呼び、鎌倉右大将家の臣石戸某の采地なりしに、後に鎌倉浄泉寺領および大串氏・木部氏の采地を経て、永正2年(1505)太田美濃守資家の領分となれり」と記し、江戸期に石戸村から分村したと推定される。
〔近世〕高尾村 江戸期~明治22年の村名
足立郡石戸領のうち。郷荘名は不詳である。旗本牧野氏の知行地。検地は寛文8年(1668)。村高は「田園簿」で377石、うち田57石余・畑320石余。「天保郷帳」では460石余。村の規模は東西20町・南北12町。荒井・下石戸上・下石戸下・石戸宿の4か村と秣場への入会権や荒川の河川敷の開発をめぐって論争が絶えなかった。河川敷に持添新田2か所があり、上沼新田・高尾村新田と呼びともに幕府領であった。化政期の家数は160軒余。荒川岸には高尾可岸があり船問屋が3軒あった。近郷の村々の年貢米をはじめ諸物産を江戸方面に搬出した。鎮守は文明5年(1473)に大宮氷川社を勧請した氷川神社で、荒井村とその枝郷北袋の鎮守も兼ねた。このことは、高尾村と荒井村がかつて 一村であったことを物語る。神社はほかに弁天神など5社があつた。寺院に氷川社別当の当山派修験で古くは大行院と号した慈眼山泉竜寺、本山派修験玉蔵院・新義真言宗西亀山無量寺泉蔵院。村内に旧家でもと菊池と名乗り成田分限帳に名を見せている菊池図書の子孫新井氏がいる。
明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数195、人口1,022、馬32。荷船5、渡船2、水害予備船3、荷車11台があった。飛地は下石戸上・荒井・石戸宿・原馬室村内などに計6か所。公立小学校は泉蔵院を仮用し、生徒数は145人であった。玉蔵院は明治元年、泉蔵院は同6年廃寺となった。主な物産に米・麦・大豆・醤油などがあった。同12年北足立郡に所属、同22年石戸村の大字となる。
〔近代〕高尾 明治22年~現在の大字名
はじめ石戸村の大字、昭和18年からは北本宿村、同34年11月から北本町、同46年11月からは北本市の現行大字。同48~51年に一部が中央1~4丁目、本町1~8丁目、西高尾1~8丁目の各一部となった。

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