北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

5 荒井

地内には縄文期~古墳期の遺跡である北袋遺跡がある。
〔近世〕荒井村 江戸期~明治22年の村名
足立郡石戸領のうち。郷荘名は不詳。旗本牧野氏の知行地。検地は寛文7年(1667)。荒川端に持添新田があり、寛政6年(1794)検地を施行し幕府領となった。村高は「田園簿」で256石余、うち田56石余・畑200石余。「元禄郷帳」には当村の枝郷として北袋村が見え、 216石余と減少、北袋村は68石余。「天保郷帳」では217石余、「旧高旧領」では北袋村はみえず303石余。村の規模は東西20町・南北11町であった。高尾・下石戸上・下石戸下・石戸宿との間で秣場への入会権や荒川の河川敷の開発をめぐって論争が絶えなかった。上記4か村との境界は複雑をきわめ、飛地も交錯し、モザイク状を呈している。化政期の家数68軒、高札場は村の東に1か所、荒井河岸もあった。鎮守は牛頭天王社と浅間社、北袋には神明社があった。寺院は天台宗千手山慈眼院双徳寺・同安楽山宝蔵寺。当山派修験正明院があった。
明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数131、人口672、馬21、渡船2があった。飛地は石戸宿村内に2か所、高尾村に1か所および北方に1か所の計4か所。同4年双徳寺は廃寺になった。主な物産に米・麦・大豆・清酒・醤油などがあった。同12年北足立郡に所属、同22年石戸村の大字となる。
〔近代〕荒井 明治22年~現在の大字名
はじめ石戸村の大字、 昭和18年からは北本宿村、 同34年11月から北本町、 同46年11月から北本市の現行大字。人口は明治22年839、昭和45年1,837。同48~51年に一部が本町1~8丁目、西高尾1~8丁目の各一部となる。

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