北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

6 東間

地名の由来は、「新編武蔵国風土記稿」によれば、寛永年間(1624~1643)頃は鴻巣の内の「東新田」と唱え、東間は鴻巣の東方にあったことによるという。
〔近世〕東間村 江戸期~明治22年の村名
足立郡鴻巣領のうち。 はじめ 「東新田」と称し、 「元禄郷帳」には東間村と見える。 はじめ幕府領であったが、安永元年(1772)から川越藩領となり、幕末の慶応3年再び幕府領となった。検地は寛永6年(1629)であった。村高は「田園簿」には東マ新田と見え79石余。「元禄郷帳」には、「古ハ東新田、東間村」とあり87石余、以後は村高は変らなかった。村の規模は東西14町、南北2町。村内を中山道が通り、小名の三軒茶屋に立場があった。村の東に持添新田があった。化政期の家数は58軒、高札場は村の東に1か所であった。鎮守は浅間社、寺院は天台宗東土山宝光寺(文化年中に焼失)と浄土宗士峯山勝林寺があった。
明治4年埼玉県に所属。同9年の戸数57戸、人口321、馬9頭がいた。宝光寺は同4年頃廃寺となった。主な物産は大麦・小麦・大豆・小豆・粟・ソバ・甘藷などで、甘藷は10万斤も出荷した。同12年北足立郡に所属、同22年中丸村の大字となる。
〔近代〕東間 明治22年~現在の大字名
はじめ中丸村、 昭和18年から北本宿村、 同34年11月から北本町、同46年11月からは北本市の現行大字。人口は明治22年402、昭和45年3,722。同42年以降に公社団地が造成され、人口が急増した。同49~53年大部分が東間1~8丁目、残りが北本1~4丁目、本宿1~8丁目、宮内1~3丁目、中丸1~5丁目の各一部となる。

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