北本地名誌

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Ⅱ 大字の沿革

7 北本宿

戦国期に当地には宿場がおかれていたが、慶長年間(1596~1615)に宿を今の鴻巣の地に移転し、当地を本鴻巣村と改称し、元禄年間(1688~1704)にさらに本宿村と改称した。本宿はもとの宿場という意味である。(新編武蔵国風土記稿)。
〔近世〕本宿村 江戸期~明治22年の村名
足立郡鴻巣領のうち。郷荘名は不詳。はじめは幕府領であったが、正保年間(1644~1648)から旗本宮崎氏の知行地、のち旗本牧野・三上氏の相給となる。検地は寛永8年(1631)と寛文8年(1668)。 村高は「田園簿」で「本鴻巣村」と見え56石余で皆畑、「元禄郷帳」では「古ハ本鴻巣、本宿村」とあり58石余、以後は変らなかった。村の規模は東西8町・南北19町余。低地に古街道の跡があり、中山道も地内を通る。高札場は村の中央に1か所、化政期(1804~1830)の家数は不明である。鎮守は天神社、寺院は新義真言宗宝塔山多聞寺である。
明治4年埼玉県に所属、「北本宿村」と改称した。これは同一行政管内に本宿村と元宿村(旧土合村現浦和市)の2村が含まれることになり、混乱をさけるため、北と南を冠することになったものである。
〔近代〕北本宿 明治22年~現在の大字名
はじめ中丸村、昭和18年から北本宿村、同34年11月から北本町、同46年11月からは北本市の現行大字。人口は明治22年286、昭和45年5,130人。同48~53年に大部分が本宿1~8丁目となり、残りが中央1~4丁目、東間1~8丁目、北本1~4丁目、中丸1~5丁目の一部となった。

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