北本の仏像

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Ⅱ 各地区の仏像

1 中丸地区(旧鴻巣領)

 太子堂

太子堂 北中丸482 →(寺院詳細)

『風土記稿』上中丸村の項に見える太子堂が、これに該当するものと思われる。付近にあった薬師堂、観音堂とともに村民持の小堂であったことが知られる。


【木造聖徳太子立像】

木造聖徳太子立像

〔品質〕寄木造、彫眼、彩色
〔法量〕像 高 57.8
太子堂本尊、聖徳太子(574~622)は我国の仏教興隆の基礎を築いた人物としてよく世に知られている。太子に対する信仰は平安時代の中頃から盛んとなり、ことに鎌倉期に入ると、時の復古的な風潮と相俟って広く民間に普及されることとなった。その後各時代を通じて一般庶民の間に根強い支持を受け今日に至っているが、その息の長い信仰の展開にともなって、二才像、十六才像、摂政太子像など数多くの肖像が製作された。この像は太子十六才のおり、父用明天皇の病気回復を祈って仏前に香炉を持って立つ姿を現わした、いわゆる孝養像と呼ばれるものだが、現在両手肘から先を欠失し、痛ましい姿となっている。体躯を前後二材矧ぎとし、その内合」部両面にかなりな量の墨書銘が記されている。それによれば、この像は安永二年(1773)五月に、上中丸村の住民加藤儀右衛門信儀を中心とする都合25名の人々の寄進を受けて造立されたもので、仏師は江戸神田の村上勝信なる人物であったことが知られる。寄進者として列記される人物はいずれも加藤姓を名乗っているが、現在でもこの地区には加藤姓が多く、おそらくその大半は彼等の先祖を見て間違いない。
『風土記稿』の上中丸村旧家幸左衛門の条によれば、加藤氏の祖先は岩槻太田氏の臣小池長門守の二男修理助宗安なる人物で、家の没落後当所に土着し、母方の姓加藤氏を名乗って繁延したと見える。『風土記稿』当時、既に本家筋の幸左衛門の家は零落してしまっていたらしいが、その血縁に連なる人々は以後も当地区に深く根を下し、営々と生産活動に励み続けて今日に至ったものと推察される。こうした一農村社会の歴史を辿ってみる時、この像は貴重な史料的手懸りを与えてくれる存在といえよう。

胎内銘(前面)

胎内銘(背面)

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