北本の仏像

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Ⅱ 各地区の仏像

1 中丸地区(旧鴻巣領)

 無量寿院

無量寿院 常光別所292 →(寺院詳細)

新義真言宗。寿命院末、大雲山大仏寺と号す。本尊は不動、毘沙門、本堂は文化四年(1804)に回禄し、仮の小堂を建てる。古くは六坊あったが全て退転し、今は西方、開戸の二坊の名が小名として残る。鐘楼の鐘は寛永五年(1628)当寺廿五世戒忍の代に鋳造したものを、さらに宝暦五年(1755)十一月三十五世慶雄が改鋳したという。境内の阿弥陀堂は、古くは無量寿院の本堂で、右大将頼朝の草創と伝え、大堂と称したが、二度ほどの回禄に遇い再建されたもの。本尊は行基作と伝える弥陀、脇立の不動、毘沙門は移されて今の本堂にある(『風土記稿』)
かつて当寺の阿弥陀堂は桶川市川田谷の泉福寺(菖蒲町栢間の光福寺の阿弥陀堂とともに頼朝草創の三大御堂と称されたと伝えるが、今日は退転してしまい、その姿を留めてぃない。『風土記稿』の記述を読むと、当寺はめぐるましい変遷を経て現在に至っていることが知られるが、その正確なところの寺歴は明らかでない。状況からみて、おそらく無量寿院は旧阿弥陀堂の別当寺であったと思われる。なお『武蔵国郡村誌』(以下『郡村誌』)には、延宝二年(1674)法印伝誉によって中興されたと見える。


【木造文殊菩薩及び両脇侍像】

木造文殊菩薩坐像

〔品質〕 (文殊)一木造、彫眼、素地仕上げ
     (両脇侍及び獅子)寄木造、彫眼、彩色
〔法量〕 (文殊)像 高 5.5 (獅子)総 高 10.0
     (両脇侍)像 高 7.8
文殊菩薩は智恵を司どる菩薩で、普賢菩薩とともに釈迦の脇侍とされるが、単独で祀られることも多く、ことに鎌倉時代には盛んな信仰を集めた。その姿は右手に利剣を持ち、左手に経典を捧げて獅子に乗る姿に現わされるのが通例だが、この像の場合利剣と経典でなく、如意を両手で捧げている。こうしたスタイルの文殊は、文殊信仰の本拠地中国の五台山に起源を持つことから、一般に五台山文殊と呼ばれており、天台寺院に多く造立されたものである。この像は、蓮台を含めて文殊本体のみ製作期が古く、その細密かつ技巧的な作風から推すと、室町期もかなり早い頃の造立と考えられる。その他の獅子、両脇侍及び光背、飾金具等はいずれも後世の補作になるもので、明治頃まで降るものと思われる。両脇侍のうち右側で獅子の手綱を取る武人が優塡王、左側に立つ童子が善財童子で、ともに文殊の眷属とされるが、通例はこの他に仏陀波利、最勝老人の二侍者が加えられる。木瓜型厨子内に安置されており、おそらく後世施入されたものであろう。

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