北本の仏像

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Ⅱ 各地区の仏像

2 石戸地区(旧石戸領)

 東光寺

東光寺 石戸宿1454 →(寺院詳細)

時宗。川越東明寺末、『風土記稿』には阿弥陀堂と見える。西亀山無量院東向寺とも号し、伝説では頼朝の弟蒲冠者源範頼の開基(一説に石戸左衛門尉ともいう)と伝えるが、その真偽のほどは明らかでない。境内にある桜の古木は古くから”蒲桜”と呼ばれ、遠近に名高い存在であったらしく、江戸後期の小説家滝沢馬琴の著になる「玄同放言」という随筆にも、渡辺華山の挿図入りで詳しい紹介がなされてぃる。県下で第二番目に古い貞永二年(1233)の板碑等中世の石造遺物が多く遺存じ、また境内及び周辺地域が鎌倉期の城館跡として認定されてぃることなどから推すと、寺の草創もかなり早い時期に遡ると思われるが、未だ正式な考古学的調査がなされてぃないため、その具体的な歴史は不明に近い。あるいは鎌倉期にこの辺りに勢力を遮ゝるった一土豪の持仏堂のようなものが、その前身であったかも知れない。


【銅造阿弥陀如来坐像】

東光寺 銅造阿弥陀如来坐像

〔品質〕 鋳銅製
〔法量〕 像 高 7.9 膝 張 6.9 膝 奥 6.0 総 高 13.4
本尊の脇に安置されるもので、本体と台座蓮台の部分は一鋳からなり、別鋳の反花座を鋲留とする。通肩の衲衣をまとい、定印を結ぶ通例の阿弥陀像だが、頭部を飾る螺髪の造りが巻縄状で表現されているのが異色である。両肩から胸に流れる衣の襟の線に抑揚をつけ、膝前部を厚く作るといった古風な表現は、この像が鎌倉末期頃の製作であることを物語る。本体部がムクであるのに対し反花座は中型を作り、しかも銅の材質や鋳造技法に各段の隔りが認められるので、一見してこの部分が後補になるものであることが知られる。正面蓮弁の部分に「光明院/遍誉/利岳信士」といった陰刻銘が施されてぃることからすれば、おそらく故人の菩提を弔うために江戸時代に入って補作されたものであろう。本像の伝来は明らかでなく、当初からこの寺に安置されていたものか、あるいは反花座が補作された時期に施入されたものか、その辺の事情は判然としない。ともあれ、市内最古の仏像として特筆すべき作品といえよう。


同 右側面

同 背 面

同 部 分

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