北本市史 通史編 自然

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第1章 北本の地形

第1節 北本の地形的位置

1 関東平野の誕生

関東堆積盆地
わが国最大の堆積平野(たいせきへいや)である関東平野の地下深くには、関東山地から帯状に連続する基盤岩が存在し、この上を新第三系・新第四系の堆積物が厚くおおっている。この厚い新期堆積物を貯えた器に相当する基盤の部分が関東堆積盆地である。
その広さは、現在の関東平野のすべてを包みこむ約一五〇キロメートル四方の範囲に及び、新第三紀(約ニニ五〇万年前)から現在まで、全体として関東平野一円は沈降地域とされてきた。
この堆積盆地は、隆起軸と沈降域が次々と北西側に移動する”将棋倒し構造”(小玉他・ー九八一)と呼ばれる運動によって支配され、盆地最深部が三〇〇〇メートル程度の、下底が鍋底型をした砂礫(されき)の堆積地域となっていた。
かつては海面下にあった関東堆積盆地には、周辺山地から大量の土砂が流入して第三紀中新世の三浦層群、鮮新世(せんしんせい)前期洪積世(こうせきせい)の上総層群(かずさそうぐん)や、相模(さがみ)・下総層群(しもうさそうぐん)、埼玉層など累計(るいけい)ー万メートルにも達する砂礫層や泥層の互層が堆積していた。
古東京湾の発展
二〇〇〇万年前ごろから関東堆積盆地は沈降が続き、広い外洋にあった関東平野の一帯は、ニ〇〇万年前ごろの前期更新世(こうしんせい)の時代に、房総半島南部の嶺岡隆起帯(みねおかりゅうきたい)が北に拡大し、房総半島・三浦半島・丹沢山地と連なる陸地によって隔てられた古東京湾と呼ばれる大湾を出現させた。
下末吉海進(しもすえかいしん)初期ごろの古東京湾は、九十九里浜の東金(とうがね)・茂原(もばら)に湾口を持つ海湾にせばまったが、下末吉海進最盛期(一三万年前から一二万年前ごろ)になると、房総半島北部や鹿島灘(かしまなだ)にも海水が浸入し、古東京湾は飛躍的に拡大して関東平野のほとんどを海面下とした。
広大な古東京湾を埋積した地蔵堂層・藪層・成田層などの下総層群の五累層は、それぞれが不整合を持ち、かつー〜二の堆積サイクルが知られていることから、古東京湾の埋積は第四紀(約二〇〇万年前ごろから現在まで)の氷河性海面変動の影響をたびたび受けてきたことが推察されている。
下総層群のー堆積サイクルは、菊池(ー九八〇)によると「①海水面の低下による古東京湾の陸化と侵食(不整合面の形成)②延長河川による砂礫の堆積③海面上昇による泥質層の堆積(狭い湾口と強内湾時代)④海進の極大と大湾への淘汰(とうた)良好な砂層の堆積⑤湾の埋積、海からの離水と、湿地環境下での泥層の堆積」、のようになる。

図2 下末吉海進期(12万年前ごろ)の古東京湾

古東京湾の消滅と関東平野の誕生
下末吉海進最盛期(一三万年前〜ーニ万年前)には、関東平野一帯を一大海域としてきた古東京湾は、氷河性海面変動の影響を受けながら、周縁山地からの土砂に埋めたてられ、次第に離水域を拡大し、成田層を堆積するころにはほとんど現在の東京湾に近い状態を示すほど縮小した。
二〇〇〇万年前ごろから沈降を続けてきた関東平野の一帯は、一〇万年前になって、ようやく海水面から姿をあらわした。これが関東平野の誕生であり、ここに埼玉平野と市域の産声(うぶごえ)を聞いたことになる。

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