北本市史 通史編 自然

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第1章 北本の地形

第3節 大地を刻む開析谷と沖積低地

2 赤堀川流域に発達する沖積低地

市域東部には、綾瀬川(あやせがわ)の支谷(しこく)にあたる赤堀川に沿って低地が発達する。ここは、元荒川右岸の孤立した小台地と広い大宮台地とにはさまれた幅約三〇〇メ—トル、延長約四キロメートルの極めて狭小な低地で、赤堀川と綾瀬川が合流する付近の河谷は自然堤防の立地によって閉塞状態(へいそくじょうたい)にある(自然付図・地形分類図)。
この赤堀川流域の沖積低地の形成過程について、三キロメートルほど下流にある桶川市後谷遣跡(うしろやいせき)の調査報告書と、市立学校給食センターのボーリング資料をもとに考察する。
後谷遣跡調査報告書(清水・堀口 ー九七七)は、赤堀川低地で実施したボ—リング資料やその珪藻分析(けいそうぶんせき)、鉱物組成等の分析結果から、赤堀川沖積低地の形成過程を次のように論じた。
洪積世(こうせきせい)末期から沖積世(ちゅうせきせい)初めの低海水準期にローム台地上を河川が流下し、そこに侵食(しんしょく)、削剥作用(さくはくさよう)が働いて深さ数メートル程の浅い谷が形成された。その後縄文海進は、これまで続いてきた河川の侵食作用を抑制(よくせい)し、今度は赤堀川の浅い谷に砂礫を運搬・堆積するように作用した。
やがて海水面の安定期を迎えると、侵食基準面(地表面上に働きかける侵食作用の及ぶ下限をいう。河食の場合は湖面や海面等が侵食基準面となる)も安定し、河川からの堆積作用は弱まり、周囲の台地から流れが集まって浅い谷底に粘土層や泥炭層を堆積するような静穏(せいおん)な堆積環境に変わった。
このようにして、縄文海進期のころに赤堀川沖積低地の沼沢地(しょうたくち)的な堆積環境が整い、以後数千年の長い間ずっと沼沢地的状態が続いたが、最近の干拓(かんたく)によってようやく沼地は消滅したとしている。
ところが、市立学校給食センターでのボーリング資料には侵食谷中に後谷遣跡の調査で認められた沖積世の砂礫層は見あたらない。谷は、台地下に連続する洪積世の砂質土層を直接切って発達し、そこに軟弱な砂質シルト層・粘土層・黒泥土層を堆積する。
このことは、後谷・篠津(しのづ)付近に及んだ河川からの侵食谷への砂礫の堆積作用は、学校給食センター付近の赤堀川低地までは及ばず、周辺台地からシルト層・粘土層だけが流入して沼沢地を埋積してできた沖積低地であることを示唆(しさ)するものと考えられる。
おそらく、菖蒲町上栢間(しょうぶまちかみかやま)付近から下栢間付近に連続し、桶川市五丁台(ごちょうだい)付近で赤堀川河口を閉ざす自然堤防の高まりや周囲の台地の高まりが、赤堀川流域一帯の低地を周辺から雨水が集まる沼沢地的環境に変えてきたのであろう。
台地上に侵食谷を形成する原因となったかどうかはまだ明らかではないが、赤堀川低地、綾瀬川(あやせがわ)低地沿いは、大宮台地を北西から南東方向に長く縦断する綾瀬川崖線(淸水・堀口 ー九八ー)と呼ばれる断層地帯にあたり、ここを境いに東西の台地は数メートルの高度差で変位している。
例えば、JR北本駅や東間・西高尾等の載る海抜二五メートル以上の高位台地面と、その東方の赤堀川低地に沿う深井七・八丁目や宮内四・五丁目、古市場付近の標高二〇メ—トル以下の低い台地面がそれにあたり、これらの高位台地面と低位台地面の間には、北中丸、宮内等にかけての緩(ゆる)やかな斜面が見られる。
綾瀬川断層から北東側には、久喜断層を北東縁として台地面の変位を示す崖縁や、線状構造を示す地形が発達している。ここは、元荒川構造帯と呼ばれる変位地帯にあたり、大正十二年(ー九三ーー)の関東大地震や、昭和六年(ー九三一)の西埼玉地震の際に地震被害の特に大きかった地域でもあった(前掲清水・堀口)。
元荒川構造帯の変動は、武蔵野期(約五万年前)から沖積世に至るまで何回も行われてきたものでその変位量は六メートルにも達すると考えられている(前掲清水・堀口)。

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