北本市史 通史編 自然

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第1章 北本の地形

第4節 北本市の地形発達史

第四紀洪積世(こうせきせい)(二〇〇万年前〜一万年前)の氷河の消長は、著(いちじる)しい海面の上昇と低下(氷河性海面変動)をひきおこした。
最終氷期前の第三間氷期(一五万年前〜六万年前)には、地球の気温が上って氷河が大量に融(と)け世界的な海面の上昇が起きた。このため現在の関東平野の一帯は海水で満たされ、ニニ万年前からニー万年前の下末吉海進極相期(しもすえよしかいしんきょくそうき)には広大な古東京湾が発達し、市域は海面下に没(ぼっ)した。
古東京湾には、周辺山地から利根川(とねがわ)・荒川・鬼怒川(きぬがわ)・多摩川(たまがわ)などの河川が流れ込み砂や泥で湾底を埋めたてた。ー〇万年前ごろになると再び気候は寒冷化し、古東京湾の海面は次第に低下していった。浅くなった海湾には上流から延びてきた河川が一層砂礫を埋積したので、現在の関東平野は古東京湾からようやく離水を始め平野の形成が進んだ。
小原台期(八万年前〜七万年前ごろ)には、多摩川や利根川・荒川が、そして鬼怒川・思川(おもいがわ)がそれぞれ大扇状地(だいせんじょうち)を形成し、河口に近い川口・野田を結んだ線から松戸付近まで沼沢地(しょうたくち)か、潟湖(せきこ)の状態にあったと考えられている(菊池・ー九七九)。当時の市域には、自然堤防状の微高地や古砂丘の小さな高まりがあり、松戸付近の一部や安行(あんぎょう)付近の一部とともに早くからローム圄の堆積可能な離水環境が整えられていた。

図9 第四紀の海面変動曲線

±0m以上の曲線の名称は、間氷期、±0m以下の曲線の名称は、氷期を示す。 (自然環境の変貌・多田文男/東京の自然史・貝塚爽平 より作成)

六万年前ごろから始まった最終氷期(洪積世の氷河時代は四回に及び、古い順にギュンツ・ミンデル・リス・ヴユルム氷期と区分される)は、気温が現在より七度も低く、東京付近でオオシラビソ・トウヒ・カラマツ等の亜高山帯の植物が生育(江古田(えこだ)松柏科植物化石・三木一九三八)し、栃木県の日光戦場ケ原の気温に匹敵するほど寒かった。
世界的な気温の低下は、陸地の約三〇パ—セントを氷河で覆(おお)い、海への水の供給を激減させ最終氷期最盛期(約二万年前)には東京湾の海面をニニ〇メートルも下げた。
ー〇〇メートル以上も低くなった海面は、強力な河川の下刻作用を促進し、関東平野に広く深い谷を刻み、谷より一段と高い扇状地性台地が形成された。
大宮台地は西縁と南縁を利根川・荒川の谷(荒川埋没谷 深さ三〇〜四〇メートル)によって削(けず)られ、本庄台地・入間台地・東松山台地等西側諸台地や関東山地東縁の丘陵と境された。東を流下した渡良瀬川(わたらせがわ)・思川(おもいがわ)の流れは、中川埋没谷(幅四〜五キロメートル、深さ四〇メートル)を掘り下げ、東側の下総台地(しもうさだいち)と大宮台地を分離した結果、周辺台地から切り離され独立した台地を形成した。
いち早く離水した市域や安行(あんぎょう)・松戸付近には、箱根火山からクリヨウカン軽石所Kup(七万年前〜六万年前ごろ)が飛来し、何百回となく噴火を繰り返す古富士火山からは下末吉ロームや武蔵野ロームが卓越西風によって運ばれ、台地上に降下堆積した。武蔵野ローム層の堆積は単調に続いたわけではなく、この間、ときには長い降灰の休止期かまたは極端に堆積速度のおそい期間もあった。
立川ロームや大里ロームが市域の台地に降下堆積していたころ、はるか遠く離れた鹿児島県始良(あいら)カルデラの大爆発(だいばくはつ)によって噴出した広域火山灰AT(始良Tn火山灰・ニ万二〇〇〇年前)が到達し、ますます口ーム台地は発達した。
その後、大宮台地は長い間侵食作用を被(こうむ)り、西部の高尾・荒井を中心に複雑な樹枝状の開析谷(かいせきこく)を展開した。開析谷の出口は、本流河川の運搬堆積した砂礫によってふさがれ縄文時代ごろから湿地的、沼沢地(しょうたくち)的環境に変化し、以後今日まで泥炭層を成長させ、アシなどの生育する沼沢地や谷地として残ってきた。
五万年前〜六万年前には、自然堤防や古砂丘の微高地を除いてほぼ一様な平坦地域であった市域付近は、常総粘土層(じょうそうねんどそう)の堆積後に始まった加須低地(かぞていち)を中心とする関東造盆地運動(かんとうぞうぼんちうんどう)の強い影響を受け、台地面は加須低地に向かって漸次低下してきた。このため台地と低地との境界は不明瞭となり、今日でも低位台地面(武蔵野面)は深井・古市場付近で加須低地の下に埋没する運動が継続している。
最終氷期が終わると気候が温暖化し、氷河がとけて海水が増え海面が上昇した。氷河時代に深く掘り込まれた荒川埋没谷や中川埋没谷の低地には、縄文海進(有楽町海進)と呼ばれる海が進入し奥東京湾が発達した。
奥東京湾は、縄文時代前期の極相期(六〇〇〇年前〜五〇〇〇年前)に中川低地では栗橋まで、満潮時にはさらに上流の栃木県藤岡町まで入り込み、荒川低地では上尾市平方(ひらかた)・川越市仙波(せんば)付近にまで進入し、この入江に沿って貝塚がつくられ縄文時代人の生活が営まれた。
ただし、市域西部の開析谷から採取した珪藻(けいそう)は、その全てが淡水止水域に生育する種で、海生種は全く検出されず(安藤・ー九九二)奥東京湾の海の影響が直接市域にまで及んだ様子はない。
市域が古東京湾から離水し火山灰を堆積して台地の形成過程を歩み始めたのは、八万年前から七万年前ごろのことであり、四五億年の長い地球の歴史からすれば、最後のほんの一瞬の時間にすぎない。もちろん、市域の台地上に人間生活が営まれたのはさらに遅れ立川ロームや大里ロームが台地上に降下したニ万年前ごろのことであって、その痕跡(こんせき)はニッ家の提灯木山遣跡などの大里口 —ム層と立川口 —ム層の間に認められている。

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