北本市史 通史編 自然

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第3章 北本の土壌

2 ヤドロ

市内の台地の黒ボク土直上に灰色を呈した砂壌土の農地が随所にみられる。この状況は、台地上にある土壌としては異常といえよう。市内の古老の話や吉川國男(ー九七五)、埼玉県土地対策課(ー九七五)によると、明治から大正にかけて農閑期を利用し、人手や馬により荒川の氾濫沖積(はんらんちゅうせき)堆積物を客土材料にしたという(古くは江戸時代からという説もある)。そのため、経済的に余裕のある農家ほど客土(きゃくど)量が多いという。この氾濫堆積物をヤド口とよび、ヤド口を台地上に運搬し、客土をおこなう作業をドロッケとよんでいる。市域を中心にして、荒川ぞいの台地上に南北約ー五キロメ—トル、東西約二キロ メートルにわたって灰色砂壌土が厚く堆積している。図23の地点では四〇センチメートルの厚さであった。
当時、農業中心の時代とはいえ、なぜこのような手間暇(てまひま)のかかるドロツケ実施したのであろうか。黒ボク土は粗しょうで水持ちが良好と指摘したが、この性質が逆効果になる場合がある。すなわち、風が強いと風食をうけ易いうえに、冬期霜柱ができやすく、作物の根がもちあがって切れる、いわゆる凍上現象の原因となる。昔から麦踏(むぎふ)みは根の切断防止の理にかなった作業であった(写真1)。しかし、最大の理由は、可溶性アルミナに富むことによるリン酸欠乏といわれている。明治から昭和の初期まで化学肥料(石灰やリン酸肥料)は開発されず、また生産が開始されても高価で農家は入手できなかった。結局、当時の土壌改良法は手近にある荒川の肥沃度の高い沖積氾濫(ちゅうせきはんらん)堆積土 (ヤド口)を客土(きゃくど)することが唯一の方法であった。ヤド口の客土により耕作土を厚くして霜柱・風食を防止し、リン酸養分を確保できた。毎年、農閑期を利用して土壌改良に努め、関東地方有数の麦作地帯をつくりだしたのであろう。

図22 大宮台地のド口ツケ地帯

(吉川國男1975「大宮台地のドロツケ=客土農法」『埼玉民俗』第5号より引用)

写真1 麦踏転圧ローラー(下石戸下)

馬に引かせて麦踏みに使用したローラー、花こう岩製 直径42cm、長さ90cm、重量324kg


ドロッケという火山灰地の土壌改良の営みを終えてから、50年以上の歳月が経過した。広域に分布する灰色砂壌土(ヤド口)の断面をみると、当時の農業生産を高めようとした地元の人々の力強い息吹(いぶき)が感じられる。

図23 ヤドロ地帯の土壊断面(高尾城中)

(『市史自然』P48より引用)

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