北本市史 通史編 原始

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第1章 火山灰の降る中で

第1節 北袋の崖面から

旧石器時代の扉
北本市の北西部に、北袋という小字がある。西側を荒川の低地に、北側から東側を谷津に囲まれた細長い台地の上に集落が開けている。台地の先端部にあたる北側は、谷を隔てて鴻巣市と対面し、あたかも袋小路(ふくろこうじ)のような地形であるため、このような地名がついたのであろう。
集落の中ほどにある村道の辻には、大きな石の地蔵が立っており、そこから細い道を北へ進むと村持ちの地蔵堂がみえてくる。クランク状にお堂をまいてさらに進むと、一〇年ほど前に土取りをした造成地につきあたる。開けた風景のなかで、突然、右手にあらわれる大きな赤土の崖(がけ)は、訪れる人をしばし圧倒するにちがいない。地質学に興味のある人たちの間で、最近知られるようになってきた「北袋の露頭(ろとう)」である(写真1)。

写真1 北袋の露頭

この北袋から南の高尾付近は、標高が三メートル余りの高台が広がり、大宮台地の中でも最も海抜(かいばつ)の高いところである。そのため谷底から台地上までの比高差はーニメートルほどもあり、自然と崖の規模も大きくなるわけだ。下から見上げると、一層高さを実感することができる。まずは、少し離れて崖の全体を観察してみよう。
崖の上は雑木林になっていて、林床(りんしょう)にはこのあたりでは珍しいクマザサが密生している。表土はこのクマザサにおおわれてよく見えないが、ササのとぎれるあたりから、茶褐色(ちゃかっしょく)の赤土が顔をのぞかせ、その下に黒色帯(こくしょくたい)(ブラックバンド)と呼ばれる黒褐色の層が約八〇センチメ—トルの厚さで堆積している。黒色帯より上の赤土は大里ローム層、黒色帯をはさんだ層は立川口—ム層と呼ばれるものだ。その下は均質でいかにも赤土らしい層が数メートルにわたって厚く堆積し、縦にヒビの入った特徴的な層へと続いている。ヒビ割れた層はクラック帯と呼んでいて、下末吉(しもすえよし)ロームの上層部にあたる。クラック帯の上の厚い赤土は武蔵野ロームである。崖(がけ)に近づいて、クラック帯の少し上をスコップで削ってみよう。黄色くて小さな軽石の集まった層が、とぎれとぎれに見つかるはずである。箱根の火山から飛んできた東京パミス層(TP)という鍵層(かぎそう)である。箱根の火山から飛んできた東京パミス層(TP)という鍵層(かぎそう)である。
クラック帯の下には白っぽい層が堆積している。よく見ると砂が固まってできているのがわかる。ただし、とても固い。ハンマーも跳ね返されてしまうほどだ。「硬砂層」(かたずなそう)といわれるもので、大宮台地では市域や浦和市周辺等でしか見られない層である。かつて、海が退きながら形成していった砂丘の名残りだといわれている(自然P一三)。
さて、これらの土層が堆積した時期を、地質学では洪積世(こうせきせい)(二〇〇万年前〜一万年前)という。当時は、気候がそれまでと比べて寒冷化し、四回にもおよぶ氷期にみまわれたことから氷河期とも称されている。氷河期といえば、北海道の日高山脈や北アルプスの峰々に刻まれた氷河地形が連想される。しかし、わたしたちが生活している台地や丘陵なども、この時期を通じてその原形が形成されてきたのである。
また、氷河期は、人類が厳しい自然環境のなかでたくましく生き抜き、そして急速に進化した時代でもある。人類の誕生以後、今から約ー万二〇〇〇年前までを旧石器時代といい、ほぼ洪積世と時期的に一致している。人々は動物を狩り、植物を採集して日々を暮らしていた。旧石器人の営んだ生活の跡は、この赤土の中に眠っているのである。そのため、旧石器時代の人々の生活を復原し、さらには当時の環境についても知ろうとするとき、このような崖面(がけめん)は多くの情報をわたしたちに提供してくれる。
それでは、北袋の崖面から、旧石器時代への扉を押し開いてみることにしよう。


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